(「僕はもう既に今年はあじさいを鑑賞していますが、雨はあまり好きではないなあ」と語るビーグル犬まろさんオス9歳、城ヶ島にて)
毎年、あじさいの季節になると「雨」という童謡を思い出します。
<雨> 作詞:北原白秋 作曲:弘田龍太郎
雨がふります 雨がふる
遊びにゆきたし 傘はなし
紅緒(べにお)の木履(かっこ)も
緒(お)が切れた
…(以下、続く)...
この歌は、幼稚園の頃だったか小学校低学年の頃だったか、いつだったかは正確に思い出せませんがとにかく小さい頃に習って歌わされた歌でした。「歌わされた」というのは、その頃はあまり好きではなかった...いやどちらかというと暗くて嫌いな曲だったので、そういう表現になるのです。その歌を聴くと、今でも寂しい情景が浮かんできます。幼稚園に預けられていたけれども母が迎えに来るのが遅くて一人、幼稚園の部屋に取り残されている状態。今思えば母は私を虐待していたし、それだからこそ幼い私は逆に「お母さんっ子」とも言われ母に依存していたものでした。その「雨」という歌を最初に習ったのが小学校だったら幼稚園の頃のこととしてはつじつまが合わないのですが、それでも「雨」という曲はどこか私を憂鬱にさせるものがあるのです。少なくとも幼稚園児の頃に「お迎えが遅くて取り残されている」という状態はあったと記憶はしていますので、悲しい曲調と悲しい経験がいつのまにか結びついてしまったということはありえます。
そして同時に、この歌を聴いて思い出すのがあじさいの花。さらにはあじさいの葉の上をゆっくりと移動するかたつむり。雨の日に家の中でじっとしていて、あじさいの葉の上をゆっくりと動くかたつむりを見ていたこと、かたつむりの目を触ってひっこめさせたり、裏側をガラスにつけて覗いて「あ、こんな風にして動いてる」と発見したりしたこと。でも、それだって「仕方ないから家の中にいる」というだけの話で、沈んだ心の記憶に違いありません。あじさいの花の色は無条件に好きだったけれども、今でもずっと好きだけれども。
そんなどちらかと言うと嫌いな「雨」という歌が、しかし私の心にはずっと残り続けているのです。子供の頃は「なんでこんな憂鬱な歌を歌うんだろうなあ...」とずっと思っていたのですが、しかし今となってはあじさいの季節、梅雨の季節、必ずその歌を思い出すし、むしろ「心にずっと残っている歌」としてもしかしたら「大好き」なのかもしれないとも思えるのです。
しかしそれは、私が大人になって子供の頃の寂しい経験を「あれも懐かしいことではあった」と懐かしむ心の余裕ができて久しいからだろうなあとは思います。
ところで、今年もいよいよ、あじさいの季節がやってきたと思います。今は、あじさいの花も「雨」の歌もかたつむりも大好きです。私が子供の頃から60年以上、ずっと家の裏庭にあったあじさいも咲き始めました。
妻と一緒に初めて行った神奈川県の開成町の「あじさいまつり」も今年は6月8日(土)~6月16日(日)の日程で開催されるそうです。
(開成町あじさいまつり実行委員会公式ホームページ 水田を彩る5000株のあじさい – 虹色の田園風景を歩こう。開成町あじさいまつり。楽しいイベント盛りだくさん。 (kaisei-ajisai.com))
鎌倉の明月院に代表されるあじさいの名所のあじさいも、そろそろ見ごろでしょうか。コロナの記憶が薄れ、鎌倉はかなり混雑していそうではありますが。
子どもの頃の、「雨」やあじさいにまつわる私の憂鬱な思いが変化したのは、妻やビーグル犬まろさんと「あじさいまつり」に行って田んぼ脇のあじさいや山にたなびく薄もやの綺麗な景色を眺めたり珍しいものを見たり美味しい酒を仕入れたり料理を食べたりといった「楽しみ」、さらには鎌倉のあじさいの名所に行った「良い思い出」に上書きされた結果なのかもしれません。