昌徳宮(3) | 朝鮮王朝から大韓帝国へ
 
 
進善門・粛章門・仁政門 
 
敦化門を入って、右へ曲がり、錦川橋 (1400年創建)を渡って、進善門をくぐる
と、仁政門前の広場に出ます。
仁政門は太宗5年(1406年)の創建、進善門、粛章門は太宗11年の創建です。
いずれも単層八作屋根で、正面3間の門で、三つの門で囲まれた長方形の区域
は仁政殿の前庭と同様に公式行事(王の即位式など)の場にもなったので、植栽
は設けられておらず、御道には「磚」と呼ばれるレンガが敷かれていました。
巫蠱の獄の罪人に対する粛宗の親鞠(王様直々の取調べ)もこの広場でおこな
われました。
 
仁政門は英祖20年の火災で焼失し、翌年に再建されています。
進善門、粛章門は壬辰倭乱で焼失したあと、光海君によって再建されましたが、
日本統治時代に取り壊されてしまいました。
最近の文化財調査で、仁政門の両側の月廊にも改造のあとが見つかっています。
  
進善門には、太宗の時代に「申聞鼓」という太鼓が置かれ、民が王様に訴えたい
ことがあるときに、太鼓を叩いて知らせるようになっていました。
しかし、いつの間にか有名無実になってしまったようです。
英祖のときに復活しているのですが、英祖は治世の後半を慶徳宮で過ごしていた
ので、どの程度活用されたかは不明です。
 
南側の行閣には、仁政殿で行なわれる儀式に必要な官衙が並んでいました。
各部署の職務は以下のとうりです。
 
政   色 : 武備司のこと。宮殿内の軍の装備を掌握。
典設司 : 宮中の宴などの際に使う帳幕を供給する官衙。.
内兵曹 : 宮中での侍衞、儀仗(儀式のための武装)を担当。
扈衛庁 : 王とその家族の護衛。
尚瑞院 : 主君の玉璽(璽宝)、節鉞(御旗の付いたマサカリ)の管理。
              世祖12年、尚瑞司から改称。
排設房 : 儀式に使う祭具の管理。
   
 
 
仁政殿
 
創建は太宗5年(1406年)で、昌徳宮を造ったとき同時に建てられました。
当初は正面3間の規模で狭かったため、太宗18年に建て直されています。
壬辰倭乱で焼失したあと、光海君元年に再建されました。
粛宗の時代に一度修理がおこなわれており、その後、純祖3年の火災で焼失して、
翌年の純祖4年(1804年)に再建されたものが現在残っています。
正面5間(80尺)、側面4間(60尺)、重層八作屋根の「正殿」です。
現在の仁政殿には、棟にスモモの花をデザインした李王家の紋章(李花文)が5つ
付いていますが、これは日本統治時代に日本人が付けたもので、元々あったもの
ではないため、東闕図にも描かれていません。
 
 
現在の仁政殿
 
 
 
改修前の仁政殿(紋章はない):関野貞「韓国建築調査報告」(1903)
 
 
日本統治時代には、建物内部を西洋風に大改修する工事がおこなわれ、前庭を
花壇にしたり、行閣を撤去するなど、文化財を毀損する行為がありました。
改造前の仁政殿について、関野卓は「韓国建築調査報告」(1903年)で次の
ように書いています。
 
「かの明政殿に比して規模壮大にして装飾絢爛、実に李朝後期の工巧を尽くせ
しものにして、最近の再興にかかれる景福宮勤政殿の模本となりしものなり。」
  
イメージ 1
内部の組物と装飾 : 関野貞「韓国建築調査報告」(1903)
  
 
 
寶蓋に描かれている鳳凰は、聖天子が現われる兆しとされ、中国の陰陽思想に
基いて雌雄一対で描かれる場合は、鳳が雄(陽)、凰が雌(陰)とされました。
見る方向によりますが、この鳳凰図では右側が雄で、全体的にやや大きめで、
尾が豪華に描かれています。
 
イメージ 8
寶蓋 : 学習院大学東洋文化研究所
 
 
玉座の後ろには、日月五嶽図屏風がたてかけてあります。
王を表す太陽は赤(東)、王妃を表す月は黄(西)となっていました。
五嶽は、金剛山、妙香山、智異山、白頭山、北漢山です。
五嶽の手前には、海が描かれています。
これは、朝廷の「朝」と海の「潮」が同じ発音であるため、象徴的に描かれて
いるという説があります。
臣下が着る官服の胸背(ヒュンベ)にも、波が描かれているものがあります。
 
イメージ 4
玉座
 
 
仁政殿前の月台には三重階 (通り道が3本ある階段)があって、中央には龍や
鳳凰を彫刻した面石が置かれています。
景福宮の勤政殿とはちがって、月台に石欄 (石の欄干)は設けられていません。
前庭(朝廷)には御道を挟んで左右に12個づつ(合計24個)の品階石が
置かれ、儀式のときには東側に文臣、西側に武臣が並びました。
これを東班、西班と呼び、合わせて「両班」と呼びました。
一品から三品までは正・従別で6個、四品から九品までは正・従共で6個、
合計で12個になります。
正祖実録によると、仁政殿の前庭に品階石が置かれたのは正祖のときで、それ
までは品階石がなく、朝賀の際に並び順が乱れていたのを正したということです。
 
東側の月廊には、文班系の楽器庫、六仙楼、書房色、観光庁が並んでいました。
月廊の中に「楼」を一箇所設けるのは、朝鮮王宮に共通してみられる特徴です。
書房色は掖庭署の一部署で、王が使う筆や硯を供給するほか、宮闕の鍵を保管
して、宮中の苑の整備などを担当していました。
観光庁の用途は不明ですが、「観光」という言葉は、己の心のなかに光明を観る
という意味があるため、科挙の試験を管轄していた官庁とも考えられています。
西側の月廊には武班の内三庁が入っています。
これは顕宗7年に、内禁衛、兼司僕、羽林衛の三つの部署を統合して禁軍営と
したもので、宮殿の守備はもちろん、王を護衛する部隊として重責を担いました。
西月廊の北側の部分には芸文館がありましたが、純祖11年に火災があり、保管
していた史籍などがすべて灰になってしまいました。
純祖33年の大火災では大造殿や熙政堂など多くの建物が焼失しましたが、仁政
殿と宣政殿だけが焼け残りました。 
 
 
                                    
宣政殿周辺
 
宣政殿の創建は不明ですが、世祖7年に朝啓庁を宣政殿に改称したという記録
が残っています。
昌徳宮の便殿(国王が日常の政務を執り行なう建物)で、正殿よりも後方に配置
されました。
正面3間(36尺)、側面3間(32尺)の八作屋根の建物で、壬辰倭乱と仁祖反正
で2度焼失しています。
光海君25年に仁慶宮の光政殿を移築して再建され、これが現在残っています。
当時の様式を伝える貴重な建物で、宝物に指定されています。
屋根には中国産の青い釉薬(図では緑色)を使った最高級の瓦を葺いています。
青瓦は権力の象徴とされ、景福宮の勤政殿と思政殿も当初は青瓦が葺かれて
いたということです。
現代でも、大統領官邸(青瓦台)が青瓦葺きの八作屋根になっています。
宣政殿の内部は、中央に寶蓋があり、その下に日月屏風と玉座があります。
朝議には正三品以上の堂上官だけが参加し、東側に文官、西側に武官が並び、
王と対座しました。
ここで話し合われたことは、一隅にいる史官が速筆で書き留めて、実録の資料
とされました。
 
イメージ 2
 
宣政殿の前には屋根付きの通路(複道)が設けられ、王様が仁政殿と宣政殿の
間を行き来するときに雨に濡れないように配慮されていました。
宣政門の外には、成宗の時代に設けられた議政府関係の官庁が建ち並んでいま
したが、日本統治時代にすべて撤去されてしまいました。
宣政門内には王朝初期に設置された宣伝官庁があり、刑名、啓螺、吹打、侍衛、
伝令、符信の出納などを取り扱っていました。
 
宣政門外の官庁は以下のとうりです。
 
供上庁 : 野菜や魚の手配を担当した。
厨院 : 司饔院ともいい、宮闕内の食を与かった。
長房 : 書吏の執務空間。
弓房 : 低級官員の執務空間。
臺庁 : 王への諌諍を担当した臺官の執務室。
銀台 : 承政院。
堂后 : 承政院の堂後官の執務室。
 
長房の東側にあった内班院は内侍府のことで、食事の監督や命令の伝達、守直、
掃除などを担当した宦官たちの官庁でした。
内班院の北側には焼厨房があり、その西側に厠間、その北側の南北に細長い庭
に面して水刺間がありました。
その北側の厨房は内厨房と外厨房に別れていて、内厨房では大妃と王妃のための
御膳、外厨房では王様の御膳を扱っていました。
 
一方、議政府の南側の墻のなかにある建物は賓庁といい大臣や備局(軍事行政)
の堂上官などの定例会議(月3回、粛宗のときは月6回)などに使われました。
 
宣政殿の北西には淑嬪崔氏の居所だった寶慶堂がありました。
英祖がここで生まれています。
 
 

朝鮮王朝実録によると、淑嬪崔氏は延礽君(21代英祖)をここで産み、それから

7年後に梨峴宮(元は光海君の潜邸)へ転居しています。

延礽君も19歳になったときに潜邸の彰義宮へ引っ越しますが、即位してからも、

臣下との引見の際に、よくここを使っていたようです。

(潜邸 : 国王になった者が、国王になる前に居住していた宮)

「昌徳宮重建都監儀軌」には、寶慶堂の重建計画にちなんで、英祖が涙ながらに

語ったという言葉が紹介されています。

 

「ここはお母様が私を産んでくださったところだ。何十年か前の今日、ここに

お母様がいらっしゃったのだ。今日はお母様の命日だが、私は齢七十になり、

この同じ場所で、臣下と共に「九経」の大義を果たそうと日々励んでいる。」

 

寶慶堂は、宣政殿から近かったため、英祖や正祖が臣下との接見に使っていた
こともあります。
1822年12月、正祖の側室で純祖の生母である嘉順宮・綏嬪朴氏が宝慶堂で逝去
しています。
寶慶堂の東側にある泰和堂と在徳堂は側室の住まいと考えられています。
寶慶堂の西側と北側の敷地は、水刺間で使う醤を入れた甕の保管場所でした。

寶慶堂は、1917年(韓国併合時代)に内殿一帯で火災があり、そのときに焼失

してしまったので、現在は何もない空き地になっています。

 

 
                                            (つづく)