土方軍の勝利で手に入れた宇都宮城。しかし4日後には増強された官軍に再び奪回される。この時に官軍が攻め入ったとされるのが、六道口・・・・ん?京都と同じだなあ。このあたりがものすごい激戦となり、多くの戦死者が出たとされている。六道に向かって歩くと途中に一向寺と報恩寺という寺が。ここには戊辰戦争で亡くなった人達の墓があります。一向寺には、汗かき阿弥陀と呼ばれる、世の天変地異に際して汗をかくという阿弥陀如来像があるという。見てみたいと思ったが、公開は日曜日だけ。残念。京都のように拝観料などないかわり、観光目的ではないからねえ。
報恩寺も当然拝観では開けてません。
入ってすぐに戊辰戦争戦没者の墓がありますが、刻印も消えかかっていて、これは知って無いとわからない。しかし、宇都宮城から20分近く歩いたなあ。やはりかつては広大だったんだなあ、と実感。これは攻めるのはいいとしても守るには2000名では少なすぎるか。土方隊はしかも二荒山にいたというから、ここまで走ってきても20分はかかる。と、思ってたら六道近くに、な、なんと凄い名前の通り見つけた。三条通り!土方らは、三条通り先の六道口をどう思ったのだろう。それともあとからついた名前の通りかなあ。
さて、もうすぐ六道口、というところで保育園児の列に遭遇。なにやら六道の公園で遊ぶようである。隊列を見て、昔は幕府軍がこうやって歩いたのだろうなあ、と。
で、着きました、六道口。路地にあるのが戊辰戦争での慰霊碑と墓。しかし、意外に交通量があって、スペースもないのでお参りが難しい。花など飾られて結構綺麗にしてあります。後ろは民家なのでしょうか。
この向かいには、園児が訪れている公園があって、そこに閻魔堂があります。しかし京都のそれとは異なりひっそり過ぎるほど。
このあと、大通りまで10分以上歩いて現裁判所前に到達。この横には追分。負傷した土方が今市に護送された道。土方の跡を訪ねて宇都宮はこれにて完了。
しかし、再び二荒山神社に戻って、ぐるっと2時間近くかかる。しかもこの広い範囲に宇都宮の中心がすっぽり入っているから、戦災は甚大であったでしょうね。指揮官の大鳥圭介は、宇都宮攻めの目的の一つに、この土地からの兵糧も見込んでいたらしい。ところが圧政の影響かで、かなり疲弊していたらしく当てに出来なかったという。外来の餃子が根付いたのには、ニラの産地というだけではない、何も無くなった風土が幸いしたのかも知れない・・・・・ありゃ、土方と関係ない話。
ところで、ご存知の方も多いですが、その後の話もついでに。負傷した土方は、隊を斉藤一に任せて養生にため離なれる。斉藤一が率いた新撰組は、会津の手前、母成峠で新政府軍を迎え撃つが敗退。塩川まで退却した新撰組は、仙台藩と合流し立て直しを図ろうとする土方と、会津のために戦うという斉藤との対立があったとされる。斉藤は仲間二十数名とともに鶴が城に向かう。その後斉藤隊は、高久村の如意堂近くで新政府軍の大群に襲撃され壊滅した。その戦いで斉藤は仲間数十人で最後まで会津のために戦った。一説では大群に突撃したとも。壬生義士伝の吉村貫一郎のようだったのか。・・・・・ああ、かっこいいとかいうのではなく、自分の気持ちというか意思を貫く潔さがいいんだなあ、この時代の男は。ちょっと幻滅するかも知れませんが、斉藤らはその後生き延びゲリラ戦を繰り広げたらしい。しかしすっごく強かったようだなあ、斉藤一。一説では警官になった後、署内の剣道大会で無敵だったようで。そりゃそうだ。で、土方は、この後、榎本武揚らと蝦夷へ。あとは有名な話。
新撰組は京都での話が有名でよく取り上げられますが、多数で囲んで一人の浪士を斬っていた時より、宇都宮~会津での新撰組の戦いこそ、強さが感じられるのは私だけかな。と、感慨に耽っていたら、少々仕事に遅れてしまった。(゚ー゚; (完)
