⑤ 永田耕作の生涯 |   マリモ博士の研究日記

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      - Research Notes of Dr. MARIMO -
  釧路国際ウェットランドセンターを拠点に、特別天然記念物「阿寒湖のマリモ」と周辺湖沼の調査研究に取り組んでいます

 ここまで、「阿寒颪に悲しき蘆笛」の作者である永田耕作の略歴について述べてきた。「恋マリモ伝説」の原点が明らかとなったのもさりながら、作品が発表されたのが22歳の若さであったのは大きな驚きであり、「恋マリモ伝説」をめぐる物語に新たな1ページを加えることができたように思う。

 

 ご子息の夏雄さんによると、永田は生涯を通じて文学に興味を持ち、小説なども含めて文章を書くのを好んだという。他方、実生活においては、大阪で起こした東洋図書で教科書や教師用の参考書等の作製・販売に取り組んだ。代表的なものは、奈良女子高等師範学校の教員による「裁縫精義」、および心理学でおなじみの「鈴木ビネー知能測定法」で、これらは高等教育機関などで広く用いられたばかりでなく、ロングセラーとなったこともあって、会社の経営は順調であった。

 

 家計にも余裕があったため、男子ばかり4人の子供の教育にも熱心で、「鈴木ビネー知能測定法」の著者である鈴木治太郎と知己であったことから、幼年時に知能検査を受けさせたり、国立師範学校の付属小学校に入学させるなどして、3人を京都大学に、1人を早稲田大学に送った。こうした教育への熱心さは他にも及び、生まれ故郷である挙母町(ころもちょう)から学業優秀な子弟を呼び寄せ、寮に泊めて昼は東洋図書で働かせ、夜は夜学に通わせた。

 

 この他にも、夏雄さんからは、子供たちが小学校低学年の時分、教科書の音読を通じて地元の関西訛を標準語に近いアクセントやイントネーションに矯正させた話や、晩年、病をおして布団に伏しながら連載③で触れた「大阪南区桃谷地域の住居表示変更と郷土史」を執筆した話など、永田の人物像に関する様々なエピソードを寄せていただいており、機会を改めて紹介したいと思う。

 

 

 さて、本題に戻ろう。「阿寒颪に悲しき蘆笛」をめぐって残された謎の第1は、それを引用した青木純二の「悲しき蘆笛」が、なぜ「恋マリモ伝説」の原作とされてきたのかという問題であった(連載③)。おそらくその理由は、「阿寒颪に悲しき蘆笛」の存在が関係者に認知されていなかったからと見て間違いないだろうが、ではなぜ「悲しき蘆笛」だったのか。

 

 「悲しき蘆笛」が収録されている青木純二著「アイヌの伝説と其情話」の表紙(1924年7月・富貴堂書房刊).

2年後の1926年5月に,構成・内容がまったく同じ「アイヌの伝説」が第百書房から発刊されている.

 

 

 私が知る限り、「悲しき蘆笛」を「恋マリモ伝説」の原作として最初に指摘したのは、釧路地方の郷土史家・佐藤直太郎である(連載①)。彼は、「佐藤直太郎郷土論文集、1961年・釧路叢書第3巻」の初出となる1957年発行の釧路市郷土博物館新聞66号において、「このような伝説がはじめて文献に見えたのは、大正十三年七月発行の青木純二氏著『アイヌの伝説と其情話』の中に、『悲しき芦笛』と題して記されたのに始まる」と述べている。

 

 また、弟子屈出身の詩人でアイヌ文化にも造詣が深かった更科源蔵は、1955年に楡書房から発刊した「北海道伝説集・アイヌ篇」の中で、「世上一般に伝えられている『恋マリモの伝説』は大正年代の創作であって、古くからあったのではなく云々」と記しており、このころ、「悲しき蘆笛」の存在はマリモに関心を持つ人々の間ではよく知られた話であったようだ。

 

  (つづく

 

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【釧路新聞文化欄・日本マリモ紀行#466,2018年7月30日】