私は正直言ってまだフェミニズムというものが定義するものがどこからどこまでなのかわかっていない。
しかしそれが、「ヒステリックに女性のみの権利主張をする」ということではないと、最近やっとわかった。
フェミニズムとは、『性差別のみならず人種主義や環境破壊のない社会を目指すムーブメント』なのだなあと理解し始めた。
数ヶ月前であっただろうか。まだ20代半ばにさしかからない私の娘が、仲の良い女の子のおうちに泊まりに行った時、ビジネスマンのお父さんがワインを開けておしゃべりに参加されたそうだ。
その時に、お父さんは娘に「今はどんなことをしているの?」と尋ねられた。
大学で勉強している内容、自分の興味ある内容を話し、そこで『フェミニズム』と言う言葉を出すと、
「でたーーー!!」と、、、
悪気はなかったのは明白だが、まいったなあ、という雰囲気でお父さんは、笑ったそうだ。
彼女は別にそれに反応せず、ニコニコと場の雰囲気を笑顔で繕っていたらしいのだが、内心「おそらくフェミニズムが何であるかは理解されていないんだろうな」と思ったという。
その後、そのお父さんが、悪気は本当になかったとは思うが、若い女の子たち、そして奥さんとお父さんという顔ぶれで飲んでいた為、
「わー なんか これキャバクラみたい!!」
と喜んでいたと言う。
このエピソードは、問題を感じない人は全く問題を感じないだろうし、問題を感じる人は非常に問題を感じるエピソードであろう。
フェミニズムとは、女性が女性のみの権利をヒステリックに主張するものではないが、『フェミニズム』という今の呼称から、そのように誤解されがちなのであろうと、今は私もわかる。
しかし1年位前までは、フェミニズムってウーマンリブの現代版かな?........と思っていた私。
このお父さんを、責める気持ちは毛頭ない。
私たちは「知らないだけ」なのだ。
フェミニズムが定義する広範囲なもの…
思想と言えば良いのか…
本当に説明が難しい。
また私には、まだ説明などはできない勉強段階だ。
しかし、これまで当たり前として受け止めていた習慣のようなもの、また伝統のようなもの、因襲的な考え方などが、「実は全て正しいわけではない」という事をこれから私たちは、日本でも学んでいくのではないかと思う。
同時に、これは私の考えであるが、フェミニズムを勉強し、今の社会のあり方に疑問を呈している人も、「今自分たちが主張していることが全て正しいわけではない」ということも、また学んでいくのではないかと思う。
そんな中「共鳴できかねる」点が人々の中には必ずでてくるが、その視点や思考の違いを受け入れ合うことは必須であろう。
誤解を恐れずに書くならば、ことに、ジェンダー問題に関しては難しいと思う。「多様性を受け入れるということが理屈ではわかるが、心がついていかない」と苦しんでいる人も実際はかなり多いと想像する。
こういう風に、“逆のプレッシャー”を感じている人が今日も存在することも認めなければ本末転倒になると思う。
感覚や価値観の異なる者同士が、『互いを責めない選択』をすることは、平和に生きる上で必須になると思う。
以下参考までに:
『99%のためのフェミニズム宣言』という本が
近く出版される。
著者は以下の三名の学者である。
1)シンジア・アルッザ Cinzia Arruzza/ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ(the New School for Social Research)哲学科准教授。著書にA Wolf in the City: Tyranny and the Tyrant in Plato's Republic (2018, Oxford University Press)など。
2)ティティ・バタチャーリャ Tithi Bhattacharya/パデュー大学歴史学准教授。専攻は南アジア史。著書にThe Sentinels Of Culture: Class, Education, And The Colonial Intellectual In Bengal (2005, Oxford University Press)など。
3)ナンシー・フレイザー Nancy Fraser/ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ(the New School for Social Research)政治・社会科学科教授。翻訳書は向山恭一訳『正義の秤――グローバル化する世界で政治空間を再想像すること』(2012年、法政大学出版局)、共著に『再配分か承認か?――政治・哲学論争』(2012年、加藤泰史監訳、法政大学出版局)など。
2)ティティ・バタチャーリャ Tithi Bhattacharya/パデュー大学歴史学准教授。専攻は南アジア史。著書にThe Sentinels Of Culture: Class, Education, And The Colonial Intellectual In Bengal (2005, Oxford University Press)など。
3)ナンシー・フレイザー Nancy Fraser/ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ(the New School for Social Research)政治・社会科学科教授。翻訳書は向山恭一訳『正義の秤――グローバル化する世界で政治空間を再想像すること』(2012年、法政大学出版局)、共著に『再配分か承認か?――政治・哲学論争』(2012年、加藤泰史監訳、法政大学出版局)など。
「生きにくい社会。少数の人間の満足は、誰かの犠牲の上に成り立っており、社会のほんとうの敵は資本主義だ 」ということを語る三者である。
その主張内容は次のようなものである。
【 1%の富裕層ではなく、「99%の私たち」のために、性差別・人種主義・環境破壊のない社会を。
いまや世界中に拡がる女性たちの運動とも共鳴しながら、研究の第一線でも活躍するジェンダー学者たちが、性の抑圧をもたらす現代資本主義の終焉を呼びかける。分断を正確に認識することで、私たちはまだ連帯できる。】
本文より
「99%のためのフェミニズムはたえず反資本主義を謳うフェミニズムである――平等を勝ち取らないかぎり同等では満足せず、公正を勝ち取らないかぎり法的権利には満足せず、個人の自由がすべての人々の自由の上に成っていることが確証されないかぎり、私たちは決して既存の民主主義には満足しない」
本文より
「99%のためのフェミニズムはたえず反資本主義を謳うフェミニズムである――平等を勝ち取らないかぎり同等では満足せず、公正を勝ち取らないかぎり法的権利には満足せず、個人の自由がすべての人々の自由の上に成っていることが確証されないかぎり、私たちは決して既存の民主主義には満足しない」
この本の主張は、原文で読むとかなり激しいので、戸惑いながら読むことになると想像できるのだが、著者たちの言っていることが100%正しいのではないという前提に立ちながらも、今までこのような視点に立ったことがない人(私も含め)にとっては、
サステイナブルな社会への新しい方向性を知るきっかけになる本であろうと思う。