第十八章 魂の咆哮、溢れ出す感謝


鏡の中に立つ自分は、まるで別人のようだった。


母が選んでくれた紺色のワンピースは、驚くほど今の希の肌に馴染んでいる。


かつての刺すような鋭さは消え、穏やかな光を宿した瞳がそこにあった。


希は、枕の下で少しシワになってしまった二枚のチケットを、指先で丁寧にまた伸ばした。


それを母の遺影と共に、一番大切にしているバッグへ仕舞い込む。


「……行こう、お母さん」


家を出て、駅へと向かう。

何度も歩いたはずの都心の街並みは、今日、初めて出会う景色のように眩しかった。


すれ違う見知らぬ人々に、心の中でそっと「ありがとうございます」と呟いてみる。


すると、世界が自分を拒絶しているのではなく、自分もまた、この巨大な営みの一部なのだという温かな実感が、足の裏から伝わってきた。


電車に揺られ、会場の最寄り駅に降り立つと、そこには同じアーティストのロゴを身につけた人々が溢れていた。


誰もがこれから始まる時間に期待し、瞳を輝かせている。

かつては「群衆」としか思えなかった人々の列。

けれど今は、その一人ひとりに守るべき日常があり、感謝すべき誰かがいるのだと感じられた。


巨大なアリーナが視界に入った時、希は一度だけ深く息を吸った。


入り口で、少し波打ったチケットを差し出す。

スタッフの手によってもぎられた瞬間、100日間の猶予は完全に終わり、本当の意味で「母との約束」が始まった。



場内に入ると、空気を震わせるような開演前のざわめきが彼女を包んだ。


指定された席は、ステージを正面に臨む特等席だった。

希は隣の空席に、母の遺影が入ったバッグを置く。


「お母さん、座って。……本当に、間に合ったよ」


ふと、自分の左腕に触れる。

あの呪縛のような数字はもうない。

白い「結び目」のような痕跡が、アリーナを旋回する青い照明に照らされ、静かに、けれど誇らしげにそこにあった。


不意に、場内の明かりが落ちた。


数万人が一斉に息を呑む静寂。


次の瞬間、地鳴りのような歓声と共に、爆発的な光と音の塊がステージから放たれた。


(……あ)


それは、音楽というよりも「咆哮」だった。


重低音が心臓を直接叩き、鋭いギターの旋律が、希の心の中に残っていた最後のかさぶたを剥がしていく。


涙が止まらなかった。


これまで「効率」や「数字」のために、自分自身でさえ見ないふりをしてきた感情。


それがこの圧倒的な音の洪水によって一気に溢れ出した。


周りの観客たちが総立ちになり、拳を突き上げている。

その巨大なエネルギーの渦の中で、希もまた、自分を縛っていたすべての過去から解き放たれていくのを感じていた。


「お母さん! お母さん……っ!」


叫んだ言葉は音の中に消えていったが、隣の席に、確かに母の気配を感じた。


あの100日間、一日一日を慈しみ、誰かに感謝を贈り続けてきたあの時間は、今日、この咆哮を聞くための、魂の準備期間だったのだ。


アリーナの天井を突き抜けるような高音が響き渡り、轟音とともに無数の銀テープが舞い落ちる。


キラキラと反射する光の中で、希は両手を高く突き上げた。


101日目の、この光り輝く瞬間のために、私は生きてきた。


「ありがとう……!」


ステージに向かって。

そして、隣の空席に向かって。


希は今日、最高に幸せな顔で、人生で一番大きな「魔法の言葉」を叫んだ。



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続きは明日20時に更新します。