この小説の第一章からお読みになる場合は


第一章 100という名のノイズ【前編】


からお読みください。

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第七章 最後の『ありがとう』


冬の夕暮れが、病室の窓を茜色に染めていた。


 急報を受けて駆けつけた緩和ケア病棟。その入り口で、希は担当の看護師に呼び止められた。


「結城さん。お母様、先ほど吐血されました。現在は落ち着いていますが、今夜が山場になるかもしれません。もしよろしければ、今夜はお母様のベッドの横で、付き添ってお休みになりますか?」


「……一度、母の様子を見てから決めさせてください」


 希はそう答えて、静かに病室のドアを開けた。

 設定温度を高めにされた空調が、温かな空気を希の頬に送ってくる。

室内には、まだ生々しい吐血の跡がわずかに残っていたが、ベッドの上の母は思いのほか落ち着いた様子だった。


「お母さん、来たよ」


「希……。ごめんね、仕事中に」


 母は掠れた声ではあるが、しっかりと意識があり、会話も交わすことができた。


その穏やかな顔を見て、希の心にわずかな否定が芽生えた。


(今夜が山場? そんなはずない。だってお母さんは、こんなに普通に話せているじゃない)


 希は一度病室を出て、ナースステーションへ向かった。


「付き添いですが、病室ではなく親族用の宿泊室を一晩だけお借りできますか?」


 今日、この瞬間に母を失うことを認めたくなかった。

特別な覚悟を決めるのではなく、

あくまで「一晩だけ泊まる」という形をとることで、日常という名の堤防を守ろうとしたのだ。


 手続きを終え、再び病室に戻った希は、母の枕元に腰を下ろした。乾燥しないように保湿クリームを手に取り、母の温かな手を優しくマッサージし始める。


「お母さん、気持ちいい?」

「ええ……ありがとう」


 母の掌をなぞりながら、希は胸の奥に仕舞い込んでいた問いを口にした。


「ねえ、お母さん。……自分の手首に、数字が見えたことってある?」


 母は不思議そうに目をしばたたかせた。


「手首に数字? ……いいえ、ないわ。急にどうしたの?」


「なんか最近見える人がいるって何かでみて、聞いてみただけ」


「そうなの?なんか…不思議な話ね。」


 希は再び無言でマッサージを続けた。


やはり、このカウントダウンは自分だけに課された呪いなのだ。


その事実に孤独を深めながらも、母の手に宿る確かな温もりに、希はどこか救われる思いがしていた。


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 面会時間が終わり、希は立ち上がった。母には宿泊室に泊まることは伝えていない。いつも通りマンションへ帰るふりをして、すぐ近くで見守る。


「じゃあ、また明日」


 その言葉だけを残して、希は扉へ手をかけた。その時、背後から母の声が響いた。


……ありがとう


 母は優しく微笑んでいた。希は小さく頷き、扉を閉めた。

 

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 翌朝、午前七時。宿泊室に夜勤の医師が訪ねてきた。


「結城さん、お母様の呼吸が不安定になっています。……今日が、おそらく山場になるでしょう。呼べる方は、今のうちに」


 心臓が嫌なリズムで跳ねた。希は震える指でスマートフォンを操作し、田舎の祖母や母の姉に連絡を入れた。


「今すぐ来て。お母さんが……最後かもしれない」


 希は病室へ走り、母の枕元に膝をついた。母はすでに意識がなく、深い眠りの中にいた。


「お母さん……聞こえる? 私、今までわがままばっかり言って、ごめんね。……私を産んでくれて、ありがとう。お母さんの娘で、本当によかった。幸せだったよ。ありがとう…」


 母の暖かい手を握りしめ、希は時間の許す限り感謝を伝え続けた。


 やがて、親族たちが次々と病室に駆け込んできた。全員が揃ってから数分後のことだった。


規則正しい波形を刻んでいたモニターの音が、不意に変わった。



 ピー――。



 テレビドラマで何度も聞いた、あの音が、現実の空気を凍りつかせた。


希は絶叫し、狂ったようにナースコールを押し続けた。一度、二度、十度。カチカチという乾いた音が空虚に響き渡る。



「お母さん! お母さん! お母さん……」



 医師と看護師が駆け込み、医師が静かに母の瞳孔を確認して、深く頭を下げた。


「午前十一時五分。……ご臨終です」


 その瞬間、希の視界は真っ白に染まった。

母の遺体にすがりつき、号泣する希の手が、母の指先に触れた。あんなに暖かかった手が、見る間に冷たくなっていく。


 世界から色が消え、ただ一箇所、希の左腕の数字だけが、無慈悲に50へと姿を変えていた。

彼女を支えていた世界の半分が、永遠の沈黙の中に消えた。


「ありがとう」


その言葉を最期に、母は50年の生涯を閉じた。

誕生日が来るのを待たず、50歳の若さで駆け抜けてしまったお母さんの命。


私の腕に灯る『50』という数字は、まるでお母さんが精一杯生きた証を、半分だけ私に託してくれたかのようにも見えた。


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