第十九章 一、何もない日の祝祭


あれから、数年の月日が流れた。 


春の柔らかな日差しが、カフェのテラス席を白く縁取っている。


かつての希なら、この時間にオフィスで眉間に皺を寄せ、分刻みの進捗を管理していただろう。


けれど今の彼女は、エプロンの紐をきゅっと結び、焼きたてのアーモンドフロランタンの香りに包まれていた。



母が遺してくれた五千万円という「愛の盾」。

希はその一部を使い、都心の片隅に小さな、けれど陽当たりの良い「時間の相談所」を兼ねたカフェを開いた。


かつての彼女のように数字に追われ、息を切らして歩く人たちが、ふと立ち止まって「自分のための時間」を取り戻す場所。

それが、希が母から受け取った自由を、誰かへ繋ぐための答えだった。


「……あ、希さん。これ、昨日の集計結果です。一円も狂いなし!」


アルバイトの大学生が、晴れやかな顔で帳簿を持ってくる。

かつての希なら「当然よ」と冷たく返しただろう。

けれど今の希は、その帳簿を大切に受け取り、真っ直ぐに彼女の目を見て微笑んだ。


「ありがとう。あなたが丁寧にやってくれたおかげね。助かったわ」


魔法の言葉を口にするたび、希の心には温かな雫が満ちていく。


感謝を伝えることは、相手だけでなく、自分自身の「今」をも祝福することなのだと、彼女はもう知っていた。


ふと、左腕の袖をまくり上げる。


そこには、あの「1」という数字が消えた跡が、今も白く細い「結び目」の傷跡として残っている。

それはもう呪縛ではない。命が一度ゼロになり、そこから新しく始まったことを証明する、世界でたった一つの勲章だ。


100から始まったカウントダウン。

あの日々は、希に「終わり」を教えたのではない。

限りある時間の中で、何を愛し、誰に感謝すべきかを教えてくれた、神様からの、そして母からの贈り物だった。




夕暮れ時、希は店を閉め、一人でテラス席に座った。


バッグの中から取り出したのは、少し端の折れ曲がった、あの日の二枚のライブチケットだ。


もぎられた半券は、今も彼女の宝物。


希は淹れたてのコーヒーを二つ用意し、向かいの空席にそっと置いた。


「お母さん。……今日も、いい一日だったよ。フロランタン、美味しく焼けたんだから」


風が吹き抜け、母の気配が優しく頬を撫でる。


自分には、まだ何万回もの「明日」が残されているかもしれない。

あるいは、突然「ゼロ」が訪れるかもしれない。

けれど、もう怖くはなかった。


今日という一日を大切に生き、出会う人々に感謝を伝え、小さな焼き菓子の甘さに心震わせる。


その「今」の積み重ねこそが、永遠に続く幸福の正体なのだと確信しているから。


希は大きく深呼吸をし、オレンジ色に染まる空を見上げた。


かつてカナダで見たオーロラの咆哮が、耳の奥で遠く鳴り響く。



世界は、こんなにも美しい「ありがとう」で満ちている。



希はカップを手に取り、見えない誰かと乾杯するように空へと掲げた。



「……生きててよかった。本当に、ありがとうございます」



彼女の左腕。白い傷跡の上を、一筋の光がキラリと撫でて通り過ぎた。


新しい一秒。

新しい一歩。


希の物語は、これからも「」から、何度でも、新しく始まっていく。