本日、宮城県の亘理町と山元町を訪れ、2カ所の避難所で腰痛回復セミナーを実施してきた。
地元で教頭先生をされている佐藤氏(左)と、絆プロジェクトの菅井氏(右)のご尽力のお陰で、今回の講演が成立した。被害が大きかった地域は立ち入り禁止になっていたが、お二人に同伴して頂いたので、詳しい説明を聞きながら時間をかけて見てまわることができた。
菅井氏も宮城県出身の方だが、被災地に対する彼の想いと行動力は半端ではない。
全財産をはたいて、炊き出しの食材調達などに費やされたそうだ。
毎週千葉から宮城まで車で駆けつけているそうだが、睡眠時間は2時間程度で、日によっては立ち上がれなくなってしまうそうだ。
当初はご家族からの反発もあったそうだが、現地に奥様を連れてきてからは、全てを投げ出して支援活動を続けていることに対して、理解を得られたという。
あれだけ広域にわたって甚大な被害がでたら、こういう捨て身の人たちが居なければ、支援活動が維持できるはずがない。

山元町は福島第一原発から50キロしか離れておらず、まだ手つかずの土地が多い。自衛隊が棒で遺体の側索にあたっている。
ニュースでは陸前高田のように、被害の大きさが分かりやすい土地ばかりがクローズアップされているが、実際には、津波が数十キロに渡って押し寄せ、テレビでは取り上げられていない土地でも、甚大な被害を受けているにも関わらず、状況が多くの人に伝わっていないのは残念なこと。今後重点的に取り上げてほしいと思う。
映像では点でしか知らなかったが、その場に立って現実を面で捉えると、復興できるか全く予測できない状況にあることが分かる。
佐藤氏は何度も何度も、「元の状態を知らないから分からないでしょうけど、ここに街があったんですよ。数キロ先にある海なんて見えなかったです。この更地に本当に街があったんですよ。」と口にした。
彼の教え子や同僚も沢山亡くなられたそうだが、そんな話を顔色を変えずに淡々とされている様子は、戦争で友人や家族を失った人に似ていた。

×印は、車中から遺体が発見された事を意味している。

震災前のさかもと駅の様子

震災後のさかもと駅

階段が捻れていて、歩くとミシミシと全体が揺れる。

歩道橋の廊下に残されたポスター。ここだけ時が止まっている。

この駅の両側には、普通に街があったそうだが今は跡形もない。

恐らく、この駅には二度と電車はやってこないと佐藤氏は言う。

ヤフーでも取り上げられて広く知られた、山元町の自動車教習所。
この建物でも犠牲者がでた。また、送迎バスで避難している中、津波にのみ込まれてしまった若者が多くいたそうだ。へしゃげた教習車。
1階のトイレがそのままカタチを残していた。

入り口には献花とお供え物があった。
2階の天井まで津波が押し寄せた。


手前にあるシートは、シュミレーション用の座席だろう。
津波の高さが2階の天井に達した跡を見ると、絶対に生き残るのは不可能だったのがわかる。

「おいしい苺は吉田から」
こういうメッセージを見ると、グッと胸が締め付けられる。
この工場に、どれくらいの人が働いたのだろう。

辺り一面、家の土台だけが残されている。

隙っ歯のように決壊した一部の堤防が残されていた

リボンのようにグニャグニャになったガードレールを沢山あった。
鉄骨をくしゃくしゃにする津波の力は計り知れない。
菅井氏から「まず今回は被災地を見て下さい。それからです全ては。見てもらわないと始まらないです。」と何度も言われていたが、その意味がよく分かった。
現場に行くと「頑張って復興してください」なんて軽々しく言えなくなる。
もう、何から手をつければ良いのか見当がつかない程、何も無くなってしまっているのだ。
「一度も被災地に見ないで、東京近郊で「がんばれ東北!」と歌っているミュージシャンがいるが、そんなスタンスで盛り上がられたって嬉しくない。影響量がある人たちには、とにかく被災地を見てもらいたい。」と仰っていた。
自分のPR活動に利用する芸能人もいるが、それなら売名行為と避難されても、最後の最後までPRし続けてほしいとも言っていた。
報道陣を沢山従え、1度だけ来て食料を配ってもという話だろう。
「とにかく、今の政治家は自分の事しか考えていない人が多い。永田町のいざこざが地方の行政にまで影響している。今ひつようなのは、とにかく強いリーダーです。」と菅井氏。
時々、心が折れそうになる時もあるらしいが、「あの時、もっとやっておけば良かったと、後悔したくないんです。」という言葉が印象的だった。
一日中、アテンドして頂いた佐藤氏と菅井氏には、この場をかりて御礼を申し上げたい。