丸亀城は徳川家康が1615年(元和元年)に発布した一国一城令で 、讃岐の大名、生駒一正に高松の居城以外の城を破却することを命じたことで廃城となりました。とはいえ、ほぼ現在と同じような石垣の城を廃城すると行っても簡単ではありません。だから櫓や屋敷は撤去しても石垣などはそのままで、むしろ石垣の威容を隠すために植樹して嘗ての「亀山」に戻すようにして城としての威容は温存していました。だからその後の1641年キリシタン統治の目的で山崎家治が丸亀藩の初代藩主として入封したとき、城としての再利用は比較的容易にできたと思います。
しかし1658年17年で山崎家は3代で断絶しました。そして各地を転々としていた名家でもある京極高和が入封しました。 その長男京極高豊が2代丸亀藩主となり京極家の墓所がある滋賀県米原市の徳源院(清瀧寺)を父親の遺骨を持って訪ねます。その寺には京極家の18代までの墓が散在していたのですが、その際、 代々の墓をとりまとめたり三重塔などを建立し寺の整備をしました。その中には 戦国の乱世を生き残った淀殿の妹・はつをめとった京極高次の墓石などが 並んでいるようです。私はNHK大河ドラマ「江 姫たちの戦国」で三姉妹の姿が印象的に残っていて、 水川あさみ のはつ役が印象に残っています。その後丸亀藩の京極家は幕末まで7代に渡って続いて行きます。ちなみに高松藩は幕府側で丸亀藩は新政府組でした。
そういえば徳川家康の頃 京極高次とはつ はキリシタンでした。そして高和が丸亀藩に入った時代は徳川家光の統治でしたから養子組の高和はキリシタンを制御する側に立つことは意外と適任だったのかもしれません。丸亀城の天守から瀬戸内海を眺めながらキリシタンの動きを探るという仕事を与えられたことで何を考えながら過ごしたのか想像だにできませんが、瀬戸内海を往来する人々の動きを監視するにはいいポジションにあったのでしょう。瀬戸内海を航行する船も北と南があったはずですが、北が潮待ちにも便利な港が連続していたのに対して南側は飛び石的で裏道のように思うのですが、キリシタンも裏路を通るとなると丸亀城の位置は監視場所として適していたのでしょう。