お久しぶりです。
ネタが全然思いつかない…と思っていたら2年も経ってしまいました笑
さて、第2回はジキル&ハイド新演出版です。
はじめに
3/26と3/28にジキル&ハイドを観てきました!旧演出版との比較、2人のヒロインに絡めた考察を行ないます。
なお、私の推しである柿澤勇人さんの演技を受けた考察ですので、佐藤隆紀さんの演技では解釈が異なることはご了承ください。
新演出と旧演出の比較
Alive:街を歩く群衆にハイドが紛れ込んでる
Someone like you:『どん底』までの帰り道で行き交う人々の中で、ルーシーが赤ん坊を撫でたり。
→日常の中で起こっている出来事を表現しているのではないか。
Alive:生まれたてのハイドが自由を謳歌するシーン。群衆は気に入らない人を蹴ったり、冷たい態度を取ったり。
Someone like you:ルーシーがジキルに希望を見出すシーン。群衆は恋人が寄り添ったり、困っている人を助けたり。
→自分の状態によって世界の見え方が変わることを表しているのではないでしょうか。
ジキルとエマ、ハイドとルーシー
エマ
エマはジキルの婚約者。彼女は「父上の病気を治すために、信念を貫いて研究を続ける」ジキルに惹かれ、彼を支えることが生き甲斐です。ジキルからの愛情も感じており、彼を信じています。
ラストシーンを除き、エマの前にはハイドは姿を表しません。Facadeの「外面ばかりを見ているだけでは真実は見えてこない」がエマに注目が集まる演出だったことを踏まえると、エマはジキルの良い部分しか見えておらず、ジキルもエマには自分の悪い部分を見せられなかったのかもしれません。
ルーシー
ルーシーはジキルの優しさに触れ、人生で初めて希望を見出します。彼女に会いに来るのはいつもハイドですが、彼の中にジキルが垣間見えるから、乱暴されても何故か惹かれてしまう。
ハイドはルーシーがジキルに好意があることを知っており、ジキルの声を利用して彼女に近づきます。自分を好いてくれないことが許せなくて彼女に暴力を振るうのは、自分もジキルの一部なのに、という思いからなのかもしれません。
誰からも愛されないという点で境遇が似ているルーシーには、自分を受け入れて欲しかったのではないでしょうか。
ルーシーを殺める直前に、Sympathy-Tendernessのリプライズをハイドが歌うのは、ルーシーがジキルに恋する瞬間と同様、自分を見て欲しいという思いからなのだとしたら?ハイドは彼女を殺めることで、自分のモノにしたのかもしれません。
ジキルの中のハイドも受け入れたエマ
結婚式のシーンで、ハイドに首を絞められたエマは、「貴方が私を傷つけるはずがないわ」とジキルに語りかけますが、ハイドはエマの首から手を離しません。
しかし、エマが手袋を外して、ハイドの頬に、ジキルに触れたように手を添えた瞬間、ハイドからジキルに戻ります。
エマがハイドの頬にジキルと同じように触れたことで、エマからの愛情をハイドは感じ取ることが出来たのではないでしょうか。そしてそれは、エマがジキルの悪の部分も受け入れたということ。
エマからの真の愛情を受け取ったジキルとハイドはエマを突き飛ばし、アターソンに自分を終わらせて欲しいと頼みます。
そして、最期。エマに抱えられたジキルとハイドは、それぞれの声で「エマ」と呼び、息を引き取る。一連の流れを恐れるように後ずさりながら見ていた周囲の人々を見渡し、エマは「2人は自由よ、いつまでも」と歌います。
ハイドの中にいるジキルを信じ続けたのか、ハイドも彼自身だと受け入れた上で愛情を注いだのか。本当のところは分かりませんが、エマがジキルとハイドを看取るラストは、彼女の深い愛情を感じられる、美しいシーンでした。
おわりに
『ジキル&ハイド』のように、見るたびに新しい発見がある作品は、再演する度に観に行きたくなります。
円盤化されないことはとても悔やしいですが、その場限りの儚さも、舞台演劇の素敵なところです。
