キロク・胞状奇胎。 -2ページ目

キロク・胞状奇胎。

繋留流産からの、胞状奇胎発覚。綴る闘病記。

退院して一週間後の検診。
これで、今回の妊娠は一区切り。

術後の治りも順調。
次の生理が終わったらまた妊娠に向けて動いて問題ないですよ。
と先生に言われ
ほっと一安心。


「また来ます!次は、産みたいです」

「はい、次はもっと長いお付き合いができるように。待ってますよ!」



次の日から基礎体温もぼちぼち付け始め
葉酸サプリも再開して
まずは生理が早くきますように。
と祈りながら
日常生活を元のように過ごすべく
気合いを入れたりなんかして。









少し持ち直してきた
それから約一週間後

ある夕方。

産婦人科から、一本の電話がありました。


「取り出した赤ちゃんを、実は検査に出していたんですよ。結果が今日届きまして、見過ごす事ができない結果が出てきてしまいました。
電話口ではなく直接のご説明が必要なので、お手数なんですけど、なるべく早めに病院までいらして下さい。」






え、、、、、、




なに?なにそれ、、、?






順調だと思ってたのに
嘘でしょ。
やめてよ。
なに?わたし、もしかしてもう赤ちゃん産めないの?



ショックで、ショックすぎて
喉がつまって
その夜はご飯が食べられませんでした。








電話を貰った次の日に
早速病院へ行ってきました。

この病理検査の結果異常で判明したのが
部分胞状奇胎だったという訳です。

肉眼では全然判らなかった位なので
hCG値もそんなに高数値を出してなかったんじゃないかと思います。

ちなみにその肝心の数値、
訊くのすっかり忘れて(^_^;)
自分の身体のことなのに
ききたい事はあるはずなのに
とっさに思い浮かばなくて
話を聞いただけで終わってしまった私…

息子の主治医とは何十分も話せて
聞きたい事は毎回山ほどあるっていうのに
これが当事者か第三者かの違いなのかなぁなんて
余談な事をふと思ったりしました。



それにしても、、、
こういう長い付き合いをしたかったんじゃないのになー( ̄。 ̄;)








確率、400~500人に1人。
これが多いのか少ないのか
私には判断がつきません。

侵入奇胎、絨毛癌にまで進むかもわかりません。

それでも今回の妊娠を機に、
二人目が欲しいって気持ちがより一段と強くなってしまったので
胞状奇胎を乗り越えて
いつか妊娠、出産までたどり着きたいです。

私の記録にもなり
胞状奇胎の病状の一例、参考にもなり
無事出産までいく事が出来れば
それは誰かの希望にもなる。

堅い理由になりましたが(^_^;)
そこまで綴っていけたらなと思っています。




直近の診察が、
産後5週目にあたる
7月22日。

今からドキドキです。

  
  

それから数日後、
掻爬手術の予約を入れました。

取り出した後、赤ちゃんと面会もできるし
小さなお花や赤ちゃんの小物とか
一緒にお箱に入れたいものがあったら
当日持ってきて下さいね。
と言われました。



手術前日、
お花を買いに花屋へ。
ふと目についた向日葵を一輪買いました。

命絶えても、まだ私のお腹のなかで
眠っている我が子へ。
最初でさいごのプレゼント。

ギリギリまで、あなたと一緒にいるからね。


お腹を撫でながら
その都度泣き崩れながら
手術日までのわずかな時間を
共に過ごしていました。







そして当日。
パパも仕事を休んで付き添ってくれる事になりました。
病棟は5階。婦人科専門病棟。

ちなみに
4階は産後ママの入院する病棟。
息子もここで産んで、4階に入院してたんだよなぁ。
もう全然おっぱい飲めなくて
全然寝てくれなくて
夜中たまらず抱っこして廊下に出たら
似たようなママが何人もヘトヘトで赤ちゃん抱っこしてて…
賑やかだった階。懐かしいなぁ。
でもこの階はすごく静か。
全然、赤ちゃんの声なんて聞こえない。

あの時とは全く違う。
パパと息子も一緒だったから
泣きはしなかったけど…
なんとなく、惨めな気分。

病院着に着替えて、ベッドに座ってみんなで遊んでいたら
点滴をしに看護師さんが入ってきました。
思わず構えて泣きそうになる息子。
おーい。今日の点滴は、君じゃないよ。(笑)



ルート取って、点滴して
ほどなく手術室に案内してもらい。

手術っていうから、帝切で入った所でするのかと思っていたけど
そこはとある奥の狭い一室。
個室っぽくなってて、ちょっと年季の入ってる分娩台が真ん中に設置されていました。

ああ、ここの分娩台は
決して命が産まれてくる処置をする所ではないんだなと
空気でわかりました。

死んだ子を取り出す所。
または生きてるのにも関わらず掻き出してしまう所。

「これから鎮痛剤と麻酔をルートから入れますね」
いよいよ始まる。
涙がポロリとこぼれました。


もっとお腹の子を想っていたかったのに
気がついたら全ての処置が終わった後でした。





手術は3階で行いました。
分娩用のLDR、詰所も同じ階にあります。

意識がはっきりするまで
暫くは3階のベッドで寝てたのですが
扉が開く度に詰所にいる赤ちゃんの声が聞こえて
その都度胸が締め付けられて
たまらなく苦しくなって。

麻酔でぼんやりしてても
涙だけは止まりません。







私の赤ちゃんには夕方会えました。
ちいさな白いお箱に入れられて
私の買ってきたお花と
午前中みんなで折った折り鶴と
前日したためておいた、赤ちゃんへの手紙。
一緒に飾られて
ベビーサークルに乗って部屋まで来てくれました。

赤ちゃんはガーゼに何重にくるまれて
もの自身は見ることが出来ませんでしたが
片手にすっぽりおさまる小ささなのに
すごく重たく感じて
たまらなく愛おしかったです。



いくら撫でても足りない。
可愛い。
ほんとうに可愛い。我が子。



たった1ヶ月の間しか一緒に入れなかったけど
とっても幸せだったよ。


私の所へ来てくれてありがとう。







その夜は、個室にひとり
我慢する事もせず泣いて泣いて
空っぽのお腹をひたすら撫でて。

翌日の診察は、異常なし。

程なく迎えに来てくれたパパと息子の顔見て
二人の笑顔に元気をもらって
前に進める一歩を踏み出しました。

  

我が家は3人家族です。

パパと、私と、
2歳になったイヤイヤ期真っ最中の息子がいます。

息子は遺伝子異常の難病を患っています。
たった一度の発作が命取りな病気を持っていますが
普段の日常はとにかく元気ありまくり、
いっぱい遊んでよく寝てよく食べる
超やんちゃでカワイイ男の子です。




2014年末、その息子の遺伝子検査の結果が判明し
その異常は息子自身の新規変異によるもので
夫婦からの遺伝では無いことが判りました。

元々きょうだいも欲しかったのもあったので
それからは自然に任せて
でも、妊娠できるといいなぁと
期待を抱きながら、毎月を過ごしていました。






そして2015年5月半ば。
私のお腹に新しい命が宿ってくれました。

初期流産の確率は知っていました。
息子の病気なんて何万人に1人っていうすごい確率だから
それよりもうんと高い確率。
妊娠できたのは凄く嬉しい反面、
現実的な率に覚悟も同時にしてました。




推定妊娠7週の検診時。
赤ちゃんの心拍がすごくゆっくりだと言われました。
エコーで見ると、確かに…
とくん、とくん、っていう感じ。
大人並みのゆっくりしたリズム。

「これだけ遅いと、もしかしたら、という確率がグンと上がってしまいます。
ただ、まだ心臓は作られてる途中で、まだまだこれからという可能性も充分あります。
お母さん、今とても不安だと思うけど
また来週様子を見ましょうね。」


この時は
そんな。どうして。というよりは
そっか。やっぱりか。という気持ちでした。

覚悟してたものが当たっただけ。
初期の流産は誰にでもある。
こればかりは防ぎようのない、致し方ないもの。


…とは言いつつも
そこから一気に私の日常活動意欲が低下し
びっくりする位やる気が無くなっていったのは
覚悟してたとはいえ
やっぱり想像以上にショックを受けていたみたいです。





そして、次の週の検診。

どの角度から何度も確認しても
ちいさな赤ちゃんの心臓はもう動いていなく
ただ私のお腹のなかに
そこに浮かんでるだけ。

寝てるみたい。


エコーで赤ちゃんの姿を見た瞬間、
涙が一気に溢れ出てきて
しばらく止まりませんでした。




胎嚢も前回よりちいさくなっていて
先生の見解では、
前回の検診のあと、わりと早く
止まってしまったみたいだね。
との事でした。





あの検診で、
ちゃんと心臓動かすところまでいけたよ!
って
最期の力を振り絞って
私に動く姿を見せてくれたのかな。

しっかりこの目で見たよ!
懸命に生きて頑張ってる姿、
この目に焼き付けたから、一生忘れない。



私のお腹に来てくれて
どうもありがとうね。
とっても可愛い、我が子。



  
  
  

新しいブログ、始めます。
妊娠8週で繋留流産で手術をし、
後の病理検査で部分胞状奇胎であると判明しました。

これからどうなっていくか分からない、
何もかも不安ではありますが
病気の事、これからの事、私の想いなど
記録として綴っていこうと思います。

よろしくお願いします(*^^*)