龍田大社
生駒郡三郷町立野南1丁目29−1
● 同じ大和川沿い、ほぼ同緯度の東方に「廣瀬大社」
● 三室山 奥宮跡地(生駒郡斑鳩町に、龍田神社と三室山がある)
● 亀の瀬 大和川が、生駒・金剛山系のあいだを通って大和と河内をつなぐ
龍田大社は大和と河内の国境の「龍田山」と深く結びつく「風神」を祀る社で
古代から続く龍田古道の信仰の中心地です。
日本書紀には、天武4年(675)に廣瀬の「水神」と共に国家的に祀られたことが記されており
龍田山だけでなく龍田川(現在の大和川)とも歴史的に深く結びつきます。
「龍田」とは 万葉歌などで「大和を発った」という意味で詠まれることもあり、奈良時代には西の玄関口として重要な場所でした。特に難波京さらに九州や中国大陸へ向かうルートとなったことや、陰陽五行説で方角の西が季節の秋と結びついたことから、望郷の象徴として、また秋の象徴として多く和歌に詠まれることになっていきました。
龍田大社は国境を象徴する龍田山に坐す神として、また地すべり地である「亀の瀬」を無事越えていくための神として、そして国を治める神として 龍田古道を見守ってきました。
龍田古道を行かれる際には、ぜひ万葉人と同じように龍田大社にてお参りをして府県境を越えてみてください。
例大祭と風鎮大祭
天武天皇の御代に都の西を司る国家的な風神として祀られました。平安時代の延喜式には風神祭の記述が見られ、以降、龍田地域の権威の象徴として交通や水運に大きく関わりました。風神祭は現在の例大祭と風鎮大祭に繋がっており、祭祀の中に大和川の治水や龍田山の山岳信仰の名残りが見られます。
龍田神楽
立野の坂根地区には坂本家という巫女の家系があります。坂本家は龍田大社の神事に大きく関わっており、風鎮大祭で舞う「龍田神楽」は同家に代々伝わるものであり、その舞は龍田姫信仰を連想させます。

主祭神
天御柱大神(志那都比古神)
國御柱大神(志那都比売神)
拝殿を左に回り込む
摂社(向かって左側)
龍田比古命
龍田比売命
末社(向かって右側)
上座:天照大御神・住吉大神の相殿
中座:枚岡大神・春日大神の相殿
下座:高望王(たかもちおう)のお妃(平家祖先)
中座:枚岡大神・春日大神の相殿
下座:高望王(たかもちおう)のお妃(平家祖先)
白龍神社
白龍さんからみた龍田本殿
摂社 龍田比古命、龍田比売命
その向こう側に三社
上(天照・住吉)中(枚岡・春日)下(高望王妃)
主祭神本殿 志那都比古神、志那都比売神
龍田恵美須神社
鎌倉時代に西宮えびす神社より勧請
三室稲荷神社
戻って拝殿 左わき
ご神紋 八重の楓
楓=木+風
境外社
安村家邸内社
安村家は、中世に栄えた立野氏を引き継ぐ形で龍田大社の神人(じにん)を勤め、龍田大社の神宮寺であった東一坊(とういちぼう)及び法隆寺西園院(さいおんいん)の住持を兼帯で担っていた一族です。安村家邸内社は、元々は安村家の邸宅内に置かれていた社で、現在は安村家に縁のある奥野家が管理を行っています。
慶長十五年(1610)、当主である安村喜右衛門信安(きえもんのぶやす:信安以降、当主は安村喜右衛門を代々襲名)は、竜田藩主の片桐且元(かたぎりかつもと)から大和川を運行する魚梁船(やなぶね)の支配を申し付けられました。魚梁船という名前の由来は龍田大社の祭事「滝祭」で供える魚を捕る場所を「魚梁(やな)」と呼んだことにあり、大和川の亀の瀬を挟んで上流を航行していました。
しかし、片桐家の断絶を起因として元禄十年(1697)に魚梁船の支配権が立野村惣百姓に移り、長年の請願の結果、正徳三年(1713)に再び支配権が安村家に戻りました。この際、幕府は運上銀の代わりに船の利益を龍田大社の修復料に充てるよう命じており、龍田大社と安村家、魚梁船の三者の結びつきが公認されたことになりました。
この繋がりは明治に入っての龍田大社の官幣大社化や、明治二十五年(1892)の鉄道開通による大和川舟運の衰退などによって終焉を迎えますが、現在でも龍田大社から三郷駅に下っていく坂道を「安村坂」と呼ぶなど、当時の繫栄を今に伝えています。
三郷町
竜田の風神祭は広瀬の大忌祭と同日祭祀、祭祀場所も近く・・・
広瀬と竜田の合同祭祀が何故必要であり、しかも民間地で行う最高最大の祭祀をしなければならなかったか。その第一の理由は、外国軍による襲撃の防衛対策でありまっしゃろ。
襲来コースは生駒山大和川地帯を突破して大和侵入というのんが決まりの道だった・・・この地域は、かつてニギハヤヒとナガスネヒコの連合軍が神武東征軍を撃退し、大将イツセノミコトを敗死させた。つまり大和防衛の勝利の地であり、強力軍団が本拠にしていた処ですやんか。
ナガスネヒコは水辺と水路地帯の豪族で、イツセ・イワレヒコ軍を生駒山西麓の河内湖の水辺で撃退しよった。彼は淀川も紀ノ川の遡行もジンムの軍勢に許さへなんだ。それくらい広範な勢力の持ち主だしたがな。当然、大和川水系のすべてはナガスネヒコの支配であった。しかもその勢力は天武天皇の頃にも衰えることがなく、水軍と水路流通の実力者であったんだす。
盆地内での都市の役割が唐古から纏向へと移っても、大量の物資輸送が始まり、人々の大移動があっても、盆地は水路の王者の采配に左右され続けたんでんな。大和王権にとっては過去に敵対した危険勢力ではあっても、なお彼らを利用しなければならず、まして、唐軍襲来の危険対策としては、竜田神以上に頼りにせねばならぬのが水軍だっしゃろ。だから手なづけ懐柔する必要から、ニギハヤヒの妻トミヤヒメを祀る形をとって広瀬神としたものだんねがな。広瀬神の祭祀は「悪き水を甘い水に替える」こと、それが目的だとする書紀の言い分が、王権に敵対する者を従順に替えるの意味だとしたら、極めて率直な告白だなあと思わされますな。
王権の存亡がかかる唐軍防衛の要とあれば、そうした神であっても盛大に祭祀しなければならんかった。それで屈折した配慮の祭祀をしたんでっせ。その表れが、広瀬神の第六位の格式でありました。竜田神上位で執行したくてもままならず、とうとう大忌上位、竜田下位で落着とあいなったんだす。すると途端に、天武八年の年内に竜田山に防衛用の砦の関が完成しよった。竜田山につくる関の実現には、なんと広瀬神上位の祭祀が条件であったんだっせ。
この事実は、砦や関という建築物のことではなく、広瀬勢力の防衛軍への参加が約束された内容でありまんのだ。広瀬神の水辺の勢力のほどが判りまんなあ。
「大和誕生と神々」田中八郎著





























