私は捻くれ者なので、必ずと言っていいほど大衆とは違う、少し横道に逸れたものを好みます。
だから、そういう捻くれた自分が好きなんだろと言われてしまえばそれまでなんです。でも、100%そういう自分を作り出すためだけにその様な選択をしている訳でもないつもりなのです。
私は一つの意見を投下された瞬間、皆がその意見一色に染まってしまうことが怖い人間なのです。ある意味、自分に対してのイエスマンの方が自分に対して喧嘩腰の人間よりも怖い。自分に対して信仰の様な物を持ち込んでくる人は、凶器を持ち込んでくる人と同じに見えるのです。
兎に角、そんなこんなで私は自ら少数派の道を選びます。でも、何か特別言葉が欲しいということもない。強いて言えば欲しい言葉は、そんな私だけを評価する言葉ではないのです。
『ああ、貴方みたいに、そうやって考える人もいるんだね。』
この言葉が一番温かくて安心する。私の存在を否定はせずに、過度に肯定もせず。(※何時もこの自己満ブログを見に来てくださってる方々は、こういった方々が多くて、毎回勝手に書き込んでは暖かい気持ちになってます。何時もありがとうございます。)腹八分目ではないけれど、十分に満足する言葉は後々重くなる。満足しつつ、まだ少し心に余裕があるくらいが一番心地よい。
そして、そんな心の物足りなさには批判も必要。
なぜ、少数派というものが生まれるのか。やっぱりそれには理由がある。だからこその批判なのだと。やっぱり私だって人間だから、いきなり批判というものを食らったら全く何も感じないわけではない。でも、
『まあ、そりゃそうだ。』
という小さな自分は絶対に心の中に居るし、その小さな自分が心から消えてしまったら、私はもっと不安になると思う。
やっぱり捻くれ者はこうやって生きてかなきゃなと思う。
でも、今のネットは捻くれ者になろうとしている人はいても、何処か踏ん切りがつかない人が多いらしい。かくいう私も。
捻くれ者でいることは自分を虐めている。
でもそれが気持ちいいと感じてもいるのだから、一種のマゾ的なものなのかも。
捻くれ者でいることが一種の自傷行為のようなものなのだとしたら、今の人達は本当の意味で捻くれ者になりたいんじゃなくて、現実で自傷行為をする人々もそうらしいけど、やっぱり自分がここに存在しているよって事を実感したい、誰かに知らしめたいのかもしれない。
私はどっちなんだろう。