「私の履歴書」(日本経済新聞)の文章は、流氏らしく軽快なテンポであるが、歴史的な順序が錯綜しており、時代的には行ったり来たりしている。一方、「MASAYUKI NAGARE The Life of a Samurai Artist」では出来事は基本的に時系列で書かれており、概ね「私の履歴書」に沿っているが、付加されている内容もあるようである(のちに出版される『流政之作品論集』ではより詳細な年譜が掲載されている)。
例えば、流氏が京都に移ってから母親は心配して時々流氏を訪ねたようだが、流氏は母の愛情を渇望しながらも、一人京都に送られたことを決して許さなかったとある。また、桜井卍正次,正幸に入門したとき、流氏は立命館大学1年生であったとある。そして海軍に入いる。
「私の履歴書」から以下抜粋する。
「いよいよ海軍にはいるという前に、大学の総長室に別れのあいさつに訪れた流に向かって、父は〈お国のために戦い、死にに行くんだから、そっと行け〉。男なら男なら涙がほしい。泣くに泣けず立ち去ると、追いかけてきた理事、〈若、ここへ行って食事でもしてらっしゃい〉と、祇園のあて名。行けば、あでやかな女あらわれ、ゆっくりおしやすと。あくる朝のこがね色の太陽が父の餞別だったと気づき、ふかい男同士の情を知る。」
「学徒出陣で第十四期海軍飛行科予備学生となる。佐世保を振り出しに、土浦、出水、筑波、霞ヶ浦、三沢と転々。
航空隊暮らしの楽しみは外出、海軍用語でいうところの〈上陸〉。いい女にめぐり合わんと、支給のせっけん、缶詰ため込むが、妻帯者でないと土曜の晩に上陸できぬのがシャクのたね。ここは度胸で乗り切るほかなしと、帽子をバケツの水につけて貫録つけ、帽章、襟章には塩ふりかけさびをだし、コートの襟くずして隊門から堂々脱出。見かけ上級士官となりすます。」
「花も吹雪の飛行科士官も、おおかたは操縦をしない偵察員とか飛行場の要務。まさか零戦パイロットにはなるまいとタカをくくっていたのに、試験官は〈戦闘機操縦を命ず〉。私には向かんのと違いますか、と訴えても、〈海軍は貴様のようなパイロットを待っておる〉。成績よりも人相、鼻や手の形を見て搭乗員を決めるのが海軍方式。プロ野球選手の石丸進一も同じ、筑波から飛び立ち沖縄であえなく花と散る。
こんな、死と隣り合わせの日常に次第に虚無感、身にそなわり、敵機にも動じぬ馬鹿度胸。おれには弾は当たらねえ、と神がかり、着任士官の顔相見て、〈あいつはあと十日の命〉と、みきわめ当たることのこわさにまどう。
空と海を舞台の毎日の殺し合い。キラキラとジュラルミンをまき散らし、ボーッと火の玉となって墜ちゆく戦闘機があんなに美しく見えるとは。流の作品のどこかに虚無が漂うとしたら、あのあやしい美しさにいまだに惑わされている故に違いない。」
「八月十五日、敗戦の報を、私は筑波海軍航空隊で聞いた。戦争ぎらいの誇りある士官に、いまさら驚き、悲しみあるわけでもなく、壊れかけたラジオから流れる玉音放送、ただ耳にけだるく、乾いた響き。ああ、もう夏も終わりか。灼けた滑走路に、じき秋風がたつに違いない。
終戦と同時に中尉に昇格したものの、このときの流はまだ二十二歳。それでも、何ごとにつけかかわる不思議な役回りの楽しみ。結局、航空隊にとどまり、いち早く帰ってしまった士官たちの残務処理、秋まで居残る貧乏クジ。それもまんざら嫌いとはいえない。
そして、ついに米軍の占領。敗れる儀式は美しく、サムライの伝統みせにゃと、白い軍服プレスして厳かに待つも、やってきたのは、上空からの指令。〈零戦を列線に並べ、プロペラと機関砲をはずせ、片脚をはずせ〉。ともに暮らし、まだ生命ある零戦を解体しなきゃならないつらさ。泣く泣く壊すその前夜、焼けつくような赤い月、あしたその生涯終わる零戦はしなやかな古武士の風格ただよわせていた。」
流氏は戦時中の数々の武勇伝を「私の履歴書」に書いているが割愛。なお別資料(1981年ギャルリーところ流政之展カタログ)では、終戦のときに空が明るくなって、そのとき部屋の壁に「国が敗れて牛が鳴き、笑う日本に春がくる」とアサハカなことを書いた記憶がある、としている。「私の履歴書」でも、終戦で泣いている士官を「気が狂ってもいい、笑え」と笑うまで殴った(二百人も)とある。
(『NAGARE The Life of a Samurai Artist』より19歳時の写真)