生涯
永遠に生き続ける命など、どこを探してもないのである。いつか終焉がやって来るのであり、人も例外ではない。
その終わり方は人それぞれであって、スタートしてからゴールに至るまでのプロセスも異なってくる。
かなり長寿であった人、非常に短命であった人、順風満帆であった人、波瀾万丈であった人など様々である。
生まれてから死ぬまでの間には、多種多様な事が起こる。人との出会いだけでなく、喜んだり、悲しんだりと喜怒哀楽に関わることが山盛りにある。
また、追い風だけではなく、逆風が吹いて困難を極める事も多い。まさに『山あり谷あり』であって、決して平坦な道のりではないのである。
起伏の激しい人生を送った人などは、『苦境の連続を何とか持ち堪えた。我ながらよく諦めずに乗り越えられたものだ』と、感慨に耽るのかも知れない。
もし、このような人の生涯を物語にするとすれば、かなりの長編になると思われる。特別な出来事だけでなく、日々の取り留めのない暮らしぶりまで入れてしまうと、膨大な量になるに違いない。
なるほど、『人生とは長い旅である』とは、よく言ったものである。臨終というゴールに辿り着くまでの旅路の様であるから。
ところが、この『長い旅』も、無限ともいえる宇宙の空間と時間の中では微々たるものになる。
ご承知のように我々人類は、地球という惑星の中で生きている。地球は太陽系の中にあって、その太陽系も銀河系の中に存在する。更に銀河系は、巨大な宇宙に包括されるのであり、その広さは人知を遥かに超えるものとなる。
宇宙の歴史についても同様である。今に至るまでには、約137億年かかったとされていて、途轍もない長さなのである。
つまり、宇宙の規模に比べると人の一生など一瞬の出来事であり、まさに、「夢幻の如く」なのである。
それでも、人の営みがまったく無意味で無価値なものであるとは言えない。なぜなら、「夢幻の如く」であっても、決して「夢幻」ではないからである。
人は、仮想ではない現実の時間と空間の中で生きている。その在り方は、映画館で見るような単なる作られた映像とは根本的に違うのである。
理論物理学においては、パラレルワールドというものが存在すると言われている。異なる二つの世界が平行に進んでいて、誰かが存在する世界と存在しない世界があり、それぞれが別々の歴史を構成しているというものである。
それが本当だとしても、これらを映画の編集のように消去したり追加したりはできない。過ぎ去った事実は変えられないのであり、神であっても不可能なのである。
我々は、この世界にたとえ僅かであっても痕跡を残している。それは紛れもない事実であり、否定のしようがない。
残念ながらその痕跡は、その人の死後、人々の脳裏から徐々に消えて行く。どんなに著名な人であっても、何年か後には忘れ去られてしまうのが常である。
固い絆で結ばれた家族や無二の親友がいるとしても、その人たちにも寿命がある。歳月が過ぎれば思い出してくれる人がいなくなるのであり、それはまるで、故人がこの世に存在してなかったかのようである。
しかしながら、たとえそうであっても『生きていた』という事実はなくならない。名声を得ようとなかろうと、何かを成していようとなかろうと、存在していたのは確かなのである。
だから、『人生とは何か』とその意味や価値を他人に問われれば、『人として懸命に生きることであり、その事自体がかけがえのないものである』と答えたい。
人は、道端に転がっている石ころなどではない。自分の意志というものを持っているのであり、その思いに沿って命の限りに生きようとする生き物である。
同じ生きるのなら、苦労なく元気なままで長生きしたいと誰もが望む。そんな願いとは裏腹に、早死にする人も結構多い。
早く亡くなった人の理由は、主に病気や災難であるが、それは予測できない不確かな事といえる。
確かに命の終点というのは、そう簡単に分かるものではない。突発的な事による急逝も起こりうるのであり、私自身もこの先、どれくらい生きられるのか検討もつかない。
だから、『あの時、こうしておけば良かった』と、悔いが残るような生き方はしたくないと思う。まあ、死んでしまえば、そんな思いも持てないのだろうけど。
医学の進歩に伴って、人の平均寿命が昔と比べて格段に長くなってきた。90歳を越える人も珍しくなく、これから先も伸びていくのは明らかである。
仮に人の寿命が80才だとすると、その折り返し点は40才になる。私はそれをとっくに過ぎているが、まだまだ先が続きそうである。今のところ、命に関わる大病もせず、死への願望もないので、少なくともあと数年は生き長らえると予測する。
それでも、楽観視するのは禁物である。なぜなら、前途にどのような災いが待ち受けているのか分からないからである。終わりが明日になる可能性もあって、油断はできないのである。
もし私が死んだら、どうなるのだろうか。『誰か悔やんでくれる人がいるのだろうか』『少しは気にかけてくれる人がいるのだろうか』という疑念が湧いてくる。
この世では、何の名誉も地位も富も持てなかった私である。葬られた後、すぐに忘れ去られるのに違いないが、人々の脳裏から私の存在が消えるのは、何か侘びしい気がする。
先ほど『生きているだけでこの世に痕跡を残せる』と述べたが、やはり、このまま死んでしまうのは不本意である。せめて、自分がこの世に生きていたという証を何かの形で残して置きたいと願う。
それは、名前が刻んであるだけの墓石などではなく、自らの手によって造り上げた物であって欲しい。そう考えて思い付いたことが、この文筆活動である。
既に、その思いを込めた小説と随筆を書き終えてはいるが、これに私自身の自伝を付け加えて、その仕上げとしたい。
終焉に近づいているとはいえ、この時点で人生を語るのは、「時期尚早」と言われるかも知れない。
それでもお迎えが来る前に、いや記憶力や思考力がなくなる前に、これまでの道のりを過去に遡って記していくつもりである。
ありきたりの取るに足らない出来事の羅列になると思うが、時には私なりの考えも織り込んでいき、読者に少しでも共感してもらえることを願っている。
意識
物心ついたのは、いつの頃であったのだろうか。自分というものを意識し出したのは、何歳の頃であったのだろうか。
この世に生を受けて今日に至るまでの営みは、すべて私の意識によって決められたものである。たとえ、他人に指図されることがあっても、それを拒絶するかどうかは自分自身の判断になる。
五感においても同様で、他人の視覚、聴覚、味覚、嗅覚、聴覚を使用したことは一度もなく、これから先もない。腹痛で唸ったことも、悔しくて泣いたことも、腹が捩れるほど笑ったことも、すべて私自身のことなのであり、私以外の何ものでもないのである。
なぜ、私だったのだろうか。なぜ、私が選ばれたのだろうか。
人類の創世記から今までに生きていた人の延べ人数というのは、かなりの数であるに違いない。それは、単に世界の総人口ではなく、生まれては死ぬことを繰り返して来たこれまでの延べ人数なのである。日本だけでなく海外も含めると、見当もつかないくらいである。
その無量大数ともいえる人類の総数の中から、何故、私だったのだろうか。どういう訳で、自分という意識を持っていたのが私であったのだろうか。
どこかの農民でもなく、武士でもなく、高貴な方でもなく、ましてや、海外の大統領でもない。日本という国で生まれた、どこにでもいるような一人の男に過ぎないのである。
しかしながら、よくよく考えてみると、暴君に虐げられる領民に生まれた訳ではなく、また、戦渦で明日をも知れぬ身で生まれた訳でもなく、そういう点では何よりの境遇であると言える。
それが平々凡々であっても、基本的な権利と自由を保障されている世の中に生まれて来たのは、有り難いことである。
それにしてもこの先、何年生きていけるのだろうか。1年後なのか20年後なのか神のみぞ知るが、もし私の命がそこで尽きてしまえば、その時点ですべてが終了になってしまうといえる。
この世があったこと、家族や知人がいたこと、諸々の事があったことなど、すべてがなかった様になってしまうのである。
もちろん、私が消えても世の中は続いていくのに違いない。それは、事故であれ、病気であれ、寿命であれ、実際に亡くなる人がいるにも関わらず世の中が続いていることから分かる。
それでも、私にとってはどうであろうか。もう、私の意識はもうないのであり、何も認識できなくなっている状態なのである。
つまり、この世は、自分の意識があってこそ成り立つのであり、そうでなければ「すべてが、無に等しい」ということになる。
誕生
昭和29年の12月8日の未明に私は産声を上げた。
私という新しい生命の誕生であるが、厳密に言うと、生命が母親の胎内に宿ったのはその日より十ヶ月程前であって、決して12月8日ではない。
しかしながら、世間一般が認める誕生日というものは、母親の胎内から出て来た日であって、その日になる。
あまり、縁起の良い日ではない。日本がどん底に落ちた太平洋戦争が始まった日であり、ジョン・レノンが熱狂的なファンに射殺された日である。
それはさておき、私が生まれた時のことは母親から聞かされていた。母親の胎内から出たときは、すぐには泣かなかったらしい。心配した産婆さんが私の尻を数回叩いて、ようやく産声を上げたようである。その声を聞いた母親も、「ホッ」としたに違いない。
実は、私が誕生する前に、もう一人、兄になるべき人がいたのであるが、残念ながら死産であった。そのこともあって、初めて我が子を抱いた母親は、安堵と喜びに満ちたと思われる。
結局、私は長男として生まれた訳だが、もし兄が無事に生まれていたら、今とは違う人生を送っていたのかも知れない。
顔
一番最初に自分の脳裏に焼き付いた人の顔は、いうまでもなく母親の顔である。微笑んだ優しい顔と唇を噛みしめた怖い顔の二つになる。
おそらくそれらは、赤ん坊の私に愛情を降り注いでいた時の顔と、泣き止まない私に苛立ってきつい表情になっていた時の顔であったに違いない。
そんな幼い時の事をはっきり記憶している筈がないと言われそうであるが、実際にその記憶が残っているのは事実である。
おもちゃ
もうひとつ記憶に残っているのが、天井に付けられていた「ガラガラ」である。
その頃は、グルグル回りながら音を出すオモチャが赤ん坊をあやすツールになっていて、赤ん坊がいる家庭では必ずあったものである。
寝返りが打てて、ハイハイをし出し、座れるようになった時は、積み木でよく遊んだ。積み上げることはできなかったが、四角や三角の木を手で触ったり、持ったりした。
小さいおもちゃのピアノもあったが、白の鍵盤をガンガンと叩くだけで、すぐに飽きてしまった。メロディを奏でられないので、単なる雑音でしかなかったからである。
よちよち歩きができる頃には、手押し車で近所を散歩していた。取っ手を持って前へ歩き出すと、フロントにある三匹のひよこが代わる代わる上に出て来るのであり、それを見て喜んだのである。母親が付き添ってはいるが、室外における初めての自力の活動といえる。
生家
私が生まれた所は、古い木造の家が連なる長屋で、その東側の一番端に位置した平屋である。屋根裏もない2部屋だけの家であったが、苔が生えている裏庭があった。
和風のようなその庭には、木々が数本植えてあり、真ん中に石臼が置いてあった。その石臼は、正月前になると外に出されて餅つきのために使われた。
屋根は瓦であるが、時折雨漏りをするくらい老朽化していた。どの家も台風が来ると壊れる恐れがあったので、町内のほとんどの住民が地域の小学校の講堂に避難したものである。
顔見知りの近所のおじさんが、『建てられてから百年以上は経っている』と、子どもの私に教えてくれたことを覚えている。なので、家賃は非常に安かったようである。
この長屋はかなり前に壊されて、私の生家もその時になくなった。今は違う建物が建っていて、そこに戻ることはもうできない。
両親
まだ若かった父親が、「戦時中に軍需工場で働いていた」と言っていたのを聞いたことがある。おそらく、兵器か何かの部品を造っていたのだと思う。
終戦になってからは、その経験を生かしてバイク店を始めようとするが、「命がなくなるような因果な商売はするな」と、親に猛反対されて諦めてしまう。この時に、大きな挫折を味わったのである。
自分から話しかけることはなかったが、人付き合いは良い方だった。堅気の人から反社会の人まで、いろんな方面に友だちがいて顔も広かったが、本当に親しかったのは同じ町内に住む同世代の男の人であった。
その人は、「百万円を貯める」というのが口癖だったが、その当時の百万円は大金であった。高卒初任給が6千円ほどであり、日雇いの賃金では食べていくのがやっとで、貯金できる余裕などなかったのである。
結局、ギャンブルも酒もほとんどせずに実際に百万円を貯めたのであるが、その後、何かの病気ですぐに亡くなってしまった。
母親は、地方で生まれ育った田舎娘であった。西も東も分からない状態で都会に出て来たが、当初は周りの慣習に戸惑って他人から誤解を受けることもあった。
それでも、父親と同様に人付き合いが良かったので、何人かの友だちがすぐに出来た。
二人がこの地に移り住んだのは、夫婦になってからである。どんな縁があっていっしょになったのかは、私が一度も聞かなかったので知らない。
非常に若かった二人は、日銭を稼ぐために小さな商売を始める。しかし、上手くは行かず、すぐに廃業する。その後、日雇いのような仕事をして極貧を凌いだ。
私が中学生になった頃には、父親は地方公共団体の現業職に就き、母親は介護福祉士になった。二人とも安定した職を得たとはいえ、共働きは続いた。
両親とも感情を表に出すタイプではなかったが、口喧嘩は毎日のようにしていた。原因は、父親の麻雀好きである。夜中に帰ってくることが多く、そのことでよく揉めたのである。
時には朝帰りもあって母親はそれを責めたが、父親は聞く耳を持たなかった。激しい口論の末に、ある時は母親が家を出て、ある時は父親が家を出るという何とも不安定な時期もあった。その度に、「これから二人は、夫婦でなくなるのではないか」と気を揉んだものである
このようなトラブルは、父親が脳卒中で倒れて麻雀が出来なくなるまで続いた。病床で母親は、「バチが当たったんや。自業自得や」と、父親の看病をしながら愚痴った。
遊びに夢中で家庭を顧みない父親であったが、時たま子煩悩なところも見せた。私が小学校の中学年の時に、嵐山まで魚釣りに連れてくれたことは今でもはっきり覚えている。釣りのノウハウを教わったのは、その時になる。
また、釣り仲間との夜釣りに私を連れてくれて、見知らぬ大人との出会いに少しワクワクしたものである。
その日はあいにく途中から雨になってしまい、みんなは釣りをやめて川岸にあった無人の倉庫に避難した。
そこは酒屋の倉庫であって、ビールが入ったケースが数箱置いてあった。冷えていないにも拘わらず、大人達はそれを無断で飲んだ。魚釣りが酒盛りになった訳である。
そのまま帰ると酒泥棒になるので、飲み終わった後でその分のお金は計算してケースの中に入れていた。あまり褒められたことではないが、お金に関しては意外に律儀な面もあった父親である。
父親は、たまに早く家に帰ってくると、母親や私に自分の好きな歌謡曲を歌ってくれた。その曲を得意のハーモニカで奏でてくれたこともある。私が音楽好きなのは、そのことが大きいと思われる。
また、温厚な性格だったので、私が学校のテストで悪い点を取っても叱ることはなかった。自分が無学だったからなのか、子どもの教育にはあまり関心を示さず、『読み書きがそこそこできればそれで良い』と思っていたようである。
母親も同じで、学校の通知表を見て叱ることは一度もなかった。ほとんどの教科が5段階評価で3であったのに、『もっとがんばらなあかんで』とは言わなかったのである。
そのような緩さがあった両親ではあるが、私にとってはそれが良かったように思う。教育熱心な親の中には、子どもに過度なプレッシャーをかけてしまって、失敗した人もいるようであるから。
母親は、仕事と家事と子育てで毎日が忙しかった。唯一楽しみにしていたのは、映画や芝居を観ることだった。日曜日になると、幼い私を連れて映画館や芝居小屋によく行っていた。
映画は封切り館ではなく、三本立ての安い三番館である。現代劇よりも時代劇を好み、市川右太衛門、片岡知恵蔵、大川橋蔵、中村錦之助といった銀幕のスター達が出ている東映の映画をもっぱら観ていた。
芝居もドサ周りの旅役者がやっている大衆演劇が好きで、任侠物が多かった。芝居小屋はそんなに広くなく、役者と客との距離が短いので臨場感があった。
時たま、出番が終わった股旅姿の役者に通路で出会ったり、演劇の最中にも拘わらず、客の野次にキレた役者が舞台上で言い返すというハプニングを見たりもした。
今思うと、映画も芝居も私にとっては退屈なものでしかなかった。幼すぎる私にとっては内容が難しく、上演の半ばには既に寝ていたと思われる。
おたかさん
ちなみに、大衆演劇でいつも役者を野次っていたのは、私の家の裏側の家に住んでいた「おたかさん」と呼ばれていたお婆さんである。
パフォーマンスのつもりだったのか、人を笑わそうとしただけだったのか、幼い私には分からなかったが、あまりの放言に役者から苦情が出て、その後、芝居小屋への出入りが禁止になってしまった。
当の本人は、思ったことをずけずけと言うだけで至って悪気はなかったのであるが、周りから疎まれていたのは確かである。
そんなおたかさんは、息子さん夫婦といっしょに暮らしていたが、その夫婦には私と同い年の娘さんがいた。活発な祖母とは違い口数が少なく大人しい女の子であったが、何かと話題になる祖母の事で肩身が狭かったに違いない。
私の母親とおたかさんは、親子程年が離れていたにも拘わらず、家が非常に近いことや芝居好きなこともあってよく世間話をしていたものである。
しかし、私が小学校の中学年の頃になると、いつの間にかまったく姿を見せなくなっていた。ある日、その事を母親に尋ねてみると、「もう亡くならはったわ」と悲しげに答えた。どうも重い病気で入院していたようである。
『そうやったんや。あんなに元気なお婆さんやったのに』と、少し驚いた。それと同時に、『人は、いつかは死ぬのである』ということを実感したのである。















