何度も食べ慣れた味なんだけど


他にもいくらでも牛タン屋はあるんだけど


やっぱり仙台に来たら利休なんだわ

極定食うま!!
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さて、土産買って帰ろ
仙台駅からバスで1時間。

石巻ボラ仲間で、東京のガチャピンさんオススメの秋保温泉郷の宿『佐勘』で温泉満喫ちう。
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ウハー(^◇^;)極楽。

しかも湯上がりにカフェでケーキセット付きね。
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東北には素敵な温泉がいっぱいあるんだってば。

被災地巡りからの温泉ツアー。
悪く無いってばさ。
みんな遊びにおいでよー!
3月11日。

震災から一年の今日、石巻のボランティアであるチーム黒組は、お世話になった橋本の姉さんちに集合。

10ヶ月ぶりに会う人や、初めて会う人とか総勢30人。
なのに、なぜかみんな、自分の家みたいにくつろいじゃって(笑)


今日は本当にたくさん笑った。
おやじギャグとかエロ話とか、くっだらないことで笑って、姉さんの作った美味しいご飯をたらふく食べて。

14:46は、みんなで馬子山にお祈りに行って。
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その後は、もうドンチャン騒ぎ。
姉さんち庭で、採れたて牡蠣を七輪で焼いちゃう俺とか、温泉行っちゃう人とか、ブックオフ行っちゃう人とか、みんな自由すぎ(笑)
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3月11日とゆう日をそんな風に過ごせる仲間達。
もちろん、姉さんやそのご家族の負った悲しみや痛みは、皆よく知っている。

だから、みんなくだらない事で笑ったり、時には一年前の地震の事を思い出して真剣に語ったり、本当に家族みたいにいられる。


津波が来て、残酷な光景だったこの街に『もう住みたく無い』と街を離れてしまう人が沢山いる中で、橋本さん夫婦は『ここにいる皆に出会えて、こうやって帰って来てくれて、この街に残って良かったよ』って嬉しそうに話してくれた。

帰り際はいつも寂しいから『さよなら』じゃなくて『また来るね』って、別れる。

また会いに行くからさ!
がんばっぺし!!
午後2時46分

石巻を一望できる馬子山より、ここからこの街の届く限り全ての悲しみに黙祷を。

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半年ぶりの石巻。

瓦礫の山。
押し潰された車の墓場。

再び訪れて、実感する。

まだまだ何も終わってない。

みんなの痛み、悲しみ、苦しみ、計り知れないし、わからない。

けど、無力な僕らが寄り添う事の意味。

それは、何かを感じ学ぶ事。

わかった風に御託並べる前に、一度で良い、僕らの大好きなこの街を見に来て欲しい。

そこから見えてくる未来は、きっと違うはずだから。
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『今の時代、真実はテレビじゃなくネットだ!!』みたいな風潮はここ最近のこと。
私など、インターネットがまだパソコン通信なんて呼ばれていた時代からその仮想世界の住人であったがゆえ、今さらですか?みたいなところはある。


ADSL回線開通以前、ダイヤルアップやISDNで、喧しいファンの音とともに欲しい情報を一昼夜かけて探しまわっては寝ている間に落としていた頃のこと。Googleが、Yahooやinfoseekのポータルサイト化に逆行する異端児的検索サイトだったことすら知らない方々にとっては、まさに今のインターネットは叩けば出てくる魔法の箱に違いない。



発信する側にとっても同じく。
初めて作った私的なWebサイトが、他の誰かの目に触れるまでに、いわゆるディレクトリ型の検索エンジンに嘆願書を送り続ける日々(笑)
まずもって、検索結果10位以内なんて事はあり得ない。
自分の名前とプロフィールで検索すればやっと出てくるみたいな。
そんなん自分以外の誰も検索しねーから悲しい。
せいぜい『ホームページ作りました!見てね!』って親しい友達にメールで知らせるのが唯一の拡散。


だから、今のSNS系の検索サイトやらTwitterやらの情報速度は本当に恐ろしい。
mixiもTwitterも、今となっては本人の意に反して、かなり拡がってしまったし、もはや近所のあの人にも、悪口書いたあの人にも、知らないうちに覗かれている事は覚悟のうえ、唯一Facebookだけはそれらとは切り離して使って来た私なのに、いつの間にか会社の方々からの友達申請なんか来ちゃったから断れないじゃない。
もう、この仮想世界に僕のプライベートはないのね(涙)みたいな。


Twitterなんか、つぶやくのが本来の目的のはずが、言いたい事たくさんで文字数制限なんか無視して長文の連続ツイートする輩が続出。
おい、人のタイムライン荒らしやがって。見にくいにも程があるぜ。勘弁してくれ。
一方で、『ブログ更新しました。URL』の一言。
うん、その使い方なら半分は正解だわ。てか俺もやってる(笑)

ブログもTwitterもFacebookもそれぞれ本来の使い方があるはずなんですけどね。



話はそれすぎたのでもう一度初めからやり直す。


『今の時代、真実はテレビじゃなくネットだ!!』みたいな風潮があるのはここ最近の風潮。

だけど、Twitterなどで拡散されて、たどり着いた情報がかなり古く、内容もお粗末なものである事が多々ある。
自分の感性にフィットした情報を掻い摘んで拡散するのは気持ちいいだろう。
けどね、もっと内容を時系列を追って精査しなければダメだし、発信元の真意すら捻じ曲げられて、もはや三流ゴシップ紙以下のお粗末な都市伝説。

日本に忍者はいませんよ。
チョンマゲもいませんよ。
そんなツッコミを入れたいぐらいのレベルに匹敵する無脳な人が沢山いるから恐ろしい。


結局、自分で試行錯誤して取捨選択できなければ情報操作されてるのと一緒。


ググって賢くなった知識人なんて信用できるかよ。
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少しでも力になれるなら…と、いても立ってもいられず目指した宮城県石巻。
別にその町に特別な思いがあったわけでもなく、最初は半分ぐらい興味本位だったのも事実。


最初に訪れたのは4月のとても寒い雨の日だった。
津波に襲われた街の惨状を目の当たりにして、その寒さと恐怖のあまり、身体がぶるぶる震えた事を思い出す。


それから数えること十数回、二十数日間。
まだまだだけど、こんなに支援させてもらう事になるなんて最初は思ってもいなかった。


そんな東北支援の中で、無力ながら私が被災地に触れさせていただいた時の事を少しだけ思い返している。



自分の首まで襲ってきた津波と天井とのわずかな隙間に顔を出し、水面上で一夜を明かした石巻の姉さん。
隣にいてさっきまで励ましあっていたはずの近所のお婆さんは、徐々に声が遠くなり、潮がひいた翌朝には力尽きていたとゆう。


流されずに残った家屋には、無事の知らせを待つ人の貼り紙

『阿部○○、無事ですか?連絡下さい。090-××××-××××』

『○○ちゃん、全員無事です。小学校にいます。』



壁にはスプレー缶の塗料で殴り書き

『絶望に慣れろ!!でも、悲しい。』

『津波の馬鹿やろう!!』



買い占めはなくとも、略奪はあった

『この家にはもう何もありません!立ち入らないで!』


国も行政も機能しないから、誰を信じて良いかわからなくて、私達のような得体の知れない連中が入ってくれば、疑い・恨みの視線を向ける人達もいた。



作業している隣の家から御遺体があがっても、何も変じゃなかった。

高台にある広場には、番号が記されたお札が立ち並び、名もなき御遺体が葬られていた。

そこらじゅうにあった、私が知らない誰かの『死』
絶望の果て、誰かが捜してやまない『死』



それでも私達は、ただ目の前の瓦礫の山と汚泥にスコップを向けるしかなかった。
ひたすら汗をかく事で、その無力感と悲しみを打ち消すように。



今ではもう、お手伝いに行けなくなってしまったけど、石巻の事を思わなかった日はないし、思い出す度に涙が出そうになる。


忘れるな。放射能だけじゃないぞ。
一瞬に押し寄せて、全てを飲み込んだ黒い津波。
怒り、憎しみ、憤り、悲しみ、諦め、計り知れない感情を堪えて、それでも前に進まなきゃならない人達が今もいる。


いつも思ってた。



そして間もなく、あの日から一年。


この3月11日とゆう日、どうかその日だけは、大切な人を喪った人達と、今なお涙を流している人達の事を思いだして、静かに祈る日であってほしい。

政治家も、原発推進派も、脱原発派も、東電も、西日本の人達もみんな。

少なくとも、誰かの不幸を代弁したかのように自分の身の安全を叫ぶデモ行進とか『脱』のイベントだけはやらないで欲しい。



そして私は、半年ぶりに石巻へ。
世話になった人に会いに行ってくるよ。


忘れるわけないだろ。
時刻はAM5:00。

外は暗いが、そもそも電気が通わないこの村は月明かりだけで十分に明るい。

ナガルコット標高2,000mでの早朝はさすがに寒く、身軽なトレッキングウェアしか用意して来なかった私は、日本から持ってきた一切の服を重ね着して宿をあとにする。

さて、ヒマラヤビュートレッキングといきますか!

空は暗く、クリアかどうかはまだわからない。

てか、暗くて誰もいなくて、普通に怖い。

野犬は吠えるし、山賊もたまに出るって噂だし。

何度か村人とすれ違う度に山賊ではないかと怯えながらも、ひたすら歩く。


30分ほど歩いただろうか、東の空が徐々に赤く染まり始め、大きく長い濃紺の山々を形どる。

見えた!
見えたぞ!!
ヒマヤラ!
ヒマラヤ?ヒマヤラ?マラヒヤ?
もう何でも良い!

サンライズタイムまで、あと15分。
展望台のあるマハデオポカリの山頂まであと2.5km。

私はすでに汗びっしょりで、アウターを一枚脱ぎたかったが、その瞬間を逃すわけにはいくまいと必死で坂を登る。


途中、道を間違えそうになりながらも、村人に助けられながら、なんとか頂上に到達。



ちょうど東の空から太陽が顔を出し始めた。
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ヒマラヤ山脈は東から西へ180度のパノラマが広がる絶好の天気。
少しずつ朝靄は消え、ヒマラヤ山脈がクッキリと朝日に映える。
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あぁ、本当にネパールに来て良かった。
私はあなたに会いたかったのです。
ナマステ。
『ヒマラヤ・ビュー・トレッキング』

それは今回の旅の大きな目的のひとつ。

残念ながらダンプスからのアンナプルナ峰の眺めは、この季節には珍しい悪天候により飛行機がフライトキャンセルとなってしまい断念。

しかし、カトマンズから最も気軽に行けるナガルコットとゆう山からは、ランタンやもしかしたらシシャパンマ、天気さえ良ければ遠くにアンナプルナも眺められるかもしれない。

すぐにベストビューポイントな宿を予約し、もう面倒くさいからタクシーで向かう。

午後4時ぐらいに到着。
昨日の悪天候をひきずり、山は曇がかっていてヒマラヤは見えない。


だが、早朝なら比較的天候も安定してヒマラヤをパノラマでビューできるはず。


明日の朝に望みを託し、宿の屋上にある展望台へ下見がてら足を運ぶ。

すると1人の男が景色を眺めていた。
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聞くところ、彼はペルー人でジュリオと名乗った。
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雲がかった景色。
通じない言葉の壁。
耐え難い沈黙。


私は思い切った。


『ジュリオ!今からミニトレッキングに出かけないか?』(私的にはちゃんとイングリッシュでそう言えたはず。)

ジュリオはもちろん快諾。

『レッツゴー!マサ!』

私達はもくもくと歩いた。
日が沈むまで。
カタコトの私のジャパニーズイングリッシュを彼は理解し、ジュリオのペルーイングリッシュを私は笑顔で…受け流した。


そしてその夜。
ジュリオと同じテーブルでディナーをした典型的なジャパニーズYesマンである私は、ネパール旅行最終日にジュリオと共にマウンテンフライト(プロペラ機でエベレストに迫る)に出かける約束をしてしまうのであった。

予想外の出費だが、きっと最高の思い出となる事を祈る。
(飛行機よ、頼むから今度こそ飛んでくれ)
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タレジュの鐘
1736年マッラ朝ビシュヌ王によって作られた大鐘。
嘆願者が王に不平を訴えるため、鐘を鳴らしたといわれる。
メールはおろか、電話すら無かった時代、民衆と王がコミュニケーションを取るための唯一の方法。