午前零時五十分。
私はセロクエルをいただきにナースステーションをたずねたのだが、なぜか誰もいなかった。
病棟内を巡回しているのかとも思ったが、そんな様子もない。
困った...
三十分待っても姿が見えないので、メモ書きを残してベッドに戻ろうと、紙とペンをとって戻ってきたら、奥の部屋から、やっと看護師さんが現れた。
「ドアを叩いてくれました?」
叩いたよ、何度も!
しかし深夜の病棟内で、けたたましく叩くわけにもいかず、途方にくれてたんだ。
セロクエルは無事にいただけたが、「すみません」の一言もない。
そんな看護師の姿勢に、私はかなり頭にきてしまった。
そんな心理状態のまま、浅い眠りについた。
そんな心理状態でみる夢は、実に自傷行為だった。
夢の中なので怪我をする心配だけはないが、あの自傷行為に走る時の、鼻を突く酸っぱさのようなメンタル的な感触だけが、深く印象に残った。
なので眠りの質が良かったはずはないのだが、それでもそれなりにチャンと寝た感じは残った。
夢の中で、散々自傷行為に走ってたから、朝には怒りもスッカリおさまってたし。
(そういう意味では、ヤッパリ順調に良くなってきているのだろう)
それよりも、そんな夢を見ながら(内容はもう思い出せないが)自傷行為にふけるバカバカしさを、心にしみて感じてしまった。
ホント、自傷行為って「私を見て!」という欲求が、歪んで、こじれて、そんな欲求の本体を自覚することもできない。
そのくせネガティブな要素は、全部自分に返ってくる。
そんな、とても幼くてナイーブな心理状態なんだなと。
こんな風に捉えられたのも、夢の中という、純粋にメンタル的な自傷行為だったからこそかな。
そう考えれば、仕事中に別室で寝ぼけてしまってた看護師さんに感謝だw
(目ぼけまなこだったぞ!)
昨日の続きで...
かつては、みずみずしい信仰心、自らの幸福のみならず社会変革の主体者たろうとする気高き自負心が、組織の隅々に横溢していた。
そうした一人一人の深く強い自覚が、組織を急拡大させた。
そうした労作業の上に、現在の基盤ができた。
そうした時代の主体者だった方達の子ども世代や孫世代が(まさしく私がその世代)、組織拡大と構築の労作業を知らぬまま、組織をオーガナイズし、リードしなければならない時代になっている。
と同時に、世界的な経済成長停滞と経済格差、超少子高齢化、ピコ早ナノ秒な各種技術の進展、かつてない各種断絶、環境破壊、温暖化などなど、人類にとって未聞の諸問題に、待ったなしで対応しなければならない時代になった。
今回の入院前、あの男性の件で奔走したのは、上に書いたような問題意識を持っていたからだ。
待ったなしの目の前の問題に、果敢に取り組む使命が信仰にはあると、私は思った。
先日のように青年を励ますのは、今を生き呼吸している彼らならではの問題を、彼の姿の上に垣間見るからだ。
彼は今を、そしてこれからを生き、新しい時代を創出する世代だからこそ、そうした時代を担うにたるみずみずしさを持って欲しい。
それを自らの中に見出して欲しい。
そのための信仰を貫いて欲しい。
そう思うからだ。
私の問題意識は、今であり未来。
過去はいい。
しかし、組織をオーガナイズしリードする立場となると、組織運営だけでも大変で、息が切れてしまうのだろうか。
(分からなくはない)
自己と向き合うなどというしち面倒くさいことは後回しにして、目の前の実績作りだけに苦心しているようにも見える。
(それも分からなくはないが、どうよとも思う)
そこには、組織の無事安穏な運営こそが至上命題となり、本来、目的であるべき人間が、ともすると手段と化す。
(これ最悪)
安易な前例主義がまかり通り、悪しき組織主義、官僚主義的傾向が浸透していく。
(30年前からピリピリ感じてたさ)
私は今までもそうした組織のありように危機感を抱いてきたし、警鐘も発してきた。
必要とあらば、上位役職者であろうが構わずもの申してきた。
しかし、そうした私のありようは、組織をオーガナイズしリードしなければならない立場からすると、自身の今までの言動や組織運営、またその任にある自身の立場を脅かしかねないものと捉えられるのかもしれない。
(同時に、私はとても有能で便利な存在とも捉えられている。実に便利に使っていただいてきた。私はそれを誇りに思っているし、そこに問題意識は抱いていない)
で、先日のエントリーで引用したこの文章だ。
宗教の権威の立場からすると、宗教に異議を挟む科学のようなものは何かと怪しく見えるのだろうが、その理由には真実や論理とまるで関係のないものもある。彼らにしてみれば、自分たちの見方を正当化する奥の手として、いつでも神を呼んでくることができる。勝手な探求はどんなものであれ、明らかに潜在的な脅威である。そのうえ神の秘密をほじくりたてられたりしては、教会の道徳的な権威、地上の支配者としての世俗的な権限が崩されかねない。そのような異議は僭越で、宗教共同体の忠節を揺るがすことでもあり、信者に神の重要性を忘れさせないとも限らない。宗教の権威が心穏やかでなくなるのも当然だろう。
リサ・ランドール著 「宇宙の扉をノックする」108頁
その信仰団体から生活の糧を得ていない立場であろうとも、その組織をオーガナイズしリードする立場は、その組織を代表し、組織の構成員に影響を与え得る立場でもあるのだから、一種の宗教的権威と言えなくもないと私は思う。
そして、宗教的権威を心穏やかでなくさせるものは、なにも科学に限った話しではないのかもしれないと、この一文を読んで思ってしまったのだ。
実証主義にのっとって、(自分で書くのもなんだが)実直に自分と対峙するスタイルの信仰を貫く私のような存在も、また彼らの心胆を寒からしめるのかもしれない。
そのように考えると、あのビックリするほど感情的になって、よく分からない理屈で反駁されたり、かと思えば黙りこくって一言も発さない、といったような極端な態度にでてくるのも、なんとなく了解できる気がしてくるのだ。
私は、こうした考え方や発言で、組織とか特定の個人を誹謗したり非難したりしたいわけではない。
一銭の得にもならない立場を担い、汗してくださっている姿には、敬意を抱いている。
(そういう立場を利用する奴には容赦しないが)
同時に、そのような立場であるからこそ、時代の変化を鋭く見つめ、自らも時代状況の変化に即応できる力を持って欲しいと思う。
それを可能にする見識を持って欲しいし、学びの姿勢を忘れないで欲しいと思う。
人間、誰だって楽したいものさ。
変わらなくていい現状維持でいられた方が、楽でいいに決まってる。
しかし私たちをとりまく時代は、世界は、容赦なく変化していく。
変化してとどまることを知らない。
そうした変化に即応できる力。
そうした変化に振り回されない智恵。
一見して相反するように見える資質が、組織をオーガナイズしリードする立場には求められているんだと、私は思う。
今日で入院から丸八週間。