今朝は何となく寝不足。
午前二時頃以降の睡眠が、何となく中途半端。
変な夢は見るし。
このような現象を通して、私の心の奥底にへばり付いていた何かしらを、吐き出しているのかもしれない。
そう考えて、ここは忍耐。
ま、寝てればいいだけの話しだし。
入院時から、何かと言葉で私につっかかってくる入院患者さんに対して、今日は断固とした行動を取らせていただいた。
ちなみに、私はその方に対して、何もしていない。
私はいつもの通り、一人で本とノートに向かっていただけだ。
「ちょっとそこで待ってなさい」とその方に言い含め、目の前のナースステーションに看護師を呼びに行く。
看護師立ち会いの下で、「さっき私に言ったことを、もう一度言ってください」と要求。
看護師さんも、その患者さんに「この人に何をされたんですか?」と問いかける。
で、ご本人、「何でもない」と何もなかったことにしようと、口をつぐむ。
こういう展開になるのは分かってた。
そしてこのような行動は、自分の心理状態に波風を立てるだけになるだけだとも、分かってた。
そこに一文の益もないことは、百も承知だった。
それでも、こうした行動に出たのは、一つにはこの患者さんの日頃の問題行動と、その行動を見て見ぬふりを決め込む病棟運営に、私の中でかなり鬱積したものがあったから。
またそうした、私が気にしなければ何ごとも実害なく済んでしまうことであるにもかかわらず、どうしても心に引っかかってしまう、そんな私の心そのものに苛立っていたから。
そうした展開の後、私はその現場から動くことはせず、相変わらず本とノートに向かう。
しかし、いったん沸き立ってしまった心理状態が落ち着くまで、ペンを握ることはできなかった。
こんな程度のことで感情的になり、自分のコントロールを失い、エモーショナルな暴走に翻弄されてしまうことこそ、私の大きな欠点であり弱点。
これもまた、私の心の病と、深く関係あるに違いない。
それと向き合うために、あえて現場から離れない。
その相手からも距離を取らない。
自分を観察し、薬の力も借りず、自力で精神的な安定を取り戻す。
何ごとがあっても、平常心でいられる私になりたい。
緊急時には、とてつもなく平常心になってしまう私なんだが、私にも誰にも何の罪もなく、ゆえなく不条理な目にあうと、どうしても感情的になってしまう。
こうしたことも、この入院で、なんとか改善するだろうか。
昨日は、ああいう内容にするつもりで書き始めたのではなかったのだが...
一般論を書けば評論家的になっちゃうから、それはイヤ。
となれば、私なりの視点で書かざるを得ず、なんかこんな展開に。
前から書きたかったことも、この流れの先でなら書けるかなという感じもあるので、このまま続けてみましょうか。
自身に無限の可能性を認め、そのことを深く確信する。
その確信のまま生きる。
それが信仰だと、私は信じている。
私にとって信仰は、とってもシンプルなのだ。
人は誰だって、叶うものなら、自分の中に無限の可能性があるって信じたい。
そんな漠然とした想いは、誰にでもある。
その願望が、例えば所有欲、あるときは金銭欲、または支配欲などなど、いろんな欲望となって噴出する。
しかしそれらは、内在する無限の可能性とは全く無縁で、かつ比較的安易に手にできる。
そして人は、自分の欲望に面白いように踊らされ、振り回され、縛りつけられもする。
そのように、人はなぜか、自身の外側にばかりに目を向ける。
本来的に向き合うべき、自分の心の奥底にある本然的な欲求を、なかなか顧りみようとはしない。
できない。
誰からも、そうしたことができるなどとは教わらない。
仮に教わったとしても、難しくて辛い道よりは、安易に楽して手にできるものに、どうしたって私たちは心ひかれる。
そうした習性は、信仰を持ったとしても、自ら意識しない限りは変わらないのだ。
そして、これは私自身が経験したことだから分かるのだが、自分の内面、清濁合わせた全てと向き合うのは、本当に大変。
そのプロセスは、とてもシンドイ。
だからこそだろう、そうした、自身の内面と向き合うという、極めて信仰にふさわしい行為でさえ、人はいとも簡単に嫌がる。
自分自身に、そして他者にも、無限の可能性を認めろ、確信しろと教える信仰をしていながらだ。
外的な条件を整えさえすれば満たされる欲望の充足に走り、それが「外面的」に満たされた状態を、信仰の結果だと自分を納得させ、されでヨシとする。
そうしたことも、その人の人生における一断面、プロセスと捉えれば、まぁよろしいんではないでしょうかと、私は思う。
そうしたことを積み重ねながらも、いつかは必ず自分自身と真っ向勝負する日を迎えて欲しいなと、私は願う。
今は、昔とは違う。
そのように言う人がいた。
信仰団体、組織にみずみずしいダイナミズムがみなぎり、爆発的な発展を遂げていた時代と現在を比較しての言葉だった。
私もティーンエージャーの頃、そうした時代の息吹を全身に浴びていた。
だから思う。
その頃と今で、いったい何が違うんだ?と。
社会状況は確かに違う。
喰うだけなら困らぬ社会になった。
何かと便利な時代になった。
そういう意味では、本当に変わった。
しかし、人間自体は何も変わっていない。
今も昔も、同じようなことで悩み、苦しんでいる。
本質的には、何にも変わってない。
確かに、そのまますぐに死に直結するような問題こそ減ったかもしれない。
自分の内面のさらに奥底と向き合う労作業を経ずとも、外面的な問題ならば、社会的な方便をもって対応することもできる世の中だ。
しかし、外面的な体裁を整えるだけに終わるそうしたアプローチは、自分の心を置き去りにする。
心の、さらにその奥底にある諸問題を、全部放置することになる。
そこには、信仰の歓びなどない。
自身の変革の手応えなど、あるわけがない。
しかし、今も昔も、人間が元来求めてやまぬのは、このどうにも扱いに困る自分自身の変革なのだ。
そして、そうした個々人の変革を基とした、社会変革、新時代創出の方途なのだ。
そのために信仰はある。
信仰が信仰たりうるのは、個々人の幸福はもとより、個々人の幸福を基として、真に人間をあらゆる不条理な呪縛から解放する世界創出の方途を示せてこそだ。
また、そのような現実を示せてこそだ。
そこにこそ、信仰の醍醐味がある。
また長くなるので、続く。