午前一時前にセロクエルを服用。
どうせすぐに眠れるだろうと高をくくっていたが、案に相違して、今朝は寝苦しい時間を過ごすことになった。
眠りが浅くて、何度も軽い覚醒を繰り返したのだ。

何とか気持ちよく寝られないものかと、ベッドの上で寝返りをうつ。
セロクエルの薬効もあって、これがけっこう大変。
しかし、どうあっても気持ちよくなれない。
途中で、気持ちよく寝ることを諦めた。
病院に入っていて、日中も寝ていられるのだ。
足りない眠りを、昼間に取り返すことができる。

何が原因で、眠りの質が悪化したのか。
一つ、心当たりがある。
他の患者さんの行動について、病棟スタッフにクレームと適切な対応をお願いしたという、とても些細な、私の心理状態に軽いさざ波をたてた程度のこと。
それが、私の心を不用意に緊張させてしまったのではないか。
それ以外、なぁ〜んにも思い当たらない。
やはり、他の不安定になっている患者さんには、どのような意味でも関わってはならないようだ。

夜の入眠は、かなりスムーズになってきていると思う。
ベッドに横になり、スマホで軽くゲームで遊びながら、眠気が訪れるのを待つ。
適当なところで、スマホで音楽再生。
入眠にはクラッシックが、私には相性が良いらしい。


今日は特別、トピックスがなかったので、昨日の予告のとおり、本の中から。


宗教の権威の立場からすると、宗教に異議を挟む科学のようなものは何かと怪しく見えるのだろうが、その理由には真実や論理とまるで関係のないものもある。彼らにしてみれば、自分たちの見方を正当化する奥の手として、いつでも神を呼んでくることができる。勝手な探求はどんなものであれ、明らかに潜在的な脅威である。そのうえ神の秘密をほじくりたてられたりしては、教会の道徳的な権威、地上の支配者としての世俗的な権限が崩されかねない。そのような異議は僭越で、宗教共同体の忠節を揺るがすことでもあり、信者に神の重要性を忘れさせないとも限らない。宗教の権威が心穏やかでなくなるのも当然だろう。

リサ・ランドール著 「宇宙の扉をノックする」108頁


著者の表現が、また訳者の力量が本当に素晴らしく、今回も楽しく学ばせてもらっている。
著者 リサ・ランドールの表現はウィットとユーモアに富んでおり、とても難解な物理学の本を読んでいるとは思えない、とんでもない楽しさがある。
その著者の魅力の一つが、口に絹を挟まない直截な表現がある。
時に鋭い皮肉をピリッと、皮肉とは思えないほどの見事に、理知的に表現してくれる。

この一文にしても、これでもずいぶんと抑えめにした表現なのだろうなぁと、私には感じられた。

私も特定の信仰を持つのだが(著者は無信仰)、ここで名前が挙がっているようなキリスト教系ではなく仏教系。
なので、一連の指摘にはそぐわない面が多々あるのだが、この一文については、まことにその通り!と、私も膝を叩いた。

特に「世俗的な権限が崩されかねない」とか「そのような異議は僭越で、宗教共同体の忠節を揺るがすことでもあり」とか、極めつけは「宗教の権威が心穏やかでなくなるのも当然だろう」というくだり。

私は科学者ではないし、著者とはまったく立場が違う。
しかし、私が信仰を貫くにあたって、透徹しているポイントが、一点だけある。
それは、徹底して実証主義の姿勢を貫くこと。
著者からすれば、科学とは相容れない信仰において、私は科学者と同じく、結果に重きを置く。
(そのプロセスとか相互作用を書き始めると、ブログの趣旨から大きく逸脱するので書かない。科学的であろうとすると、欠かせない大切な部分だけどね)

私は信仰に慰めなど期待していない。
信仰団体への帰属意識がもたらしてくれるであろう安心感も、私には完全に不要。
人間を賢明にし、強くさせる。
私が信仰に求めるのは、そうしたことだ。

私にとって最も重要なのは、書かれていることが、説かれている内容が、実践によって本当にそのまま、私の人生の上に現れるのかという一点。
それが本当に正しく、確かに人をして幸福たらしめるものなのか。
それだけ。
私の人生は、そのためだけにあると覚悟している。

そのような私の姿勢は、現在居住している地域では、ある意味で急進的過ぎ、偏りすぎととらえられる経験を、三十代以降、繰り返してきた。

これはいったいどうしたことだろう?
教わったとおりの一字一句違えぬ実践と、説かれているとおりの結果を従えて生きてきたにもかかわらず、私は組織をオーガナイズしリードする立場の人たちと、一度ならず衝突してきた。

一番端的にその様子が現れたのは、このブログのもう一人の主人公である彼女の問題にたずさわり始めたの時だ。
その内容は、煩わしいばかりなので、もう繰り返し書かない(知りたかったら頭から読んでください)。

どうも端的に言って、私は「煩(うるさ)い人」、「煩(わずら)わしい人」と受け取られているらしい。
確かに私は、組織の上位役職者に厳しい態度でいることが、比較的多い。
指摘するのもかわいそうなって、とりたてて何かを言うでもなく、ただ激励するだけのことも多い。
しかし、いざ所属している人の困難な問題にかかわる時の私は、舌鋒鋭く、怠惰である上位役職者に反論の余地を少しも残さない。
遠慮無く、その無責任さを糾弾する。
その様なときは、顔を真っ赤にして感情的なまでに、教義とはまったく関係のないことをわめき立てれるか、さもなくば、押し黙られてしまう。
そして、文句があるなら私に直接言って欲しいものなのだが、なぜかいつも陰口しかたたかれない。


私の信念を支えているのは、まごうことなき信仰である。
純粋に、どこまでも純粋に信仰を貫いて、実際にどのような人生をおくれるのか?
その実験の場が、私の人生だ。


その信念は、ここ35年間、いささかもかわっていない。
しかし周囲の、特に組織をオーガナイズする立場からは、そのようには思われない。
これはどうしたことだろう。
何ゆえに、このようなことになるのだろう。

これは、ここ数年、考えてきた、そして取り組んできた命題でもある。

長くなったので、続く。