この「自分史であり他人史であり」というブログは、一人の女性の身の上に現れた現実と彼女の真実を綴るために始めた。
自身の心に七人の代替人格を抱え、自分としての一つの確立した人格さえ持てずに生きてきた一人の女性。
そうした彼女の体験は、極めて悲惨であり、極めて奇跡的であり、同時に、万人にとってとても示唆的でもある。
その代替人格たち一人一人の真実、そして彼女の真実を、私一人が知るだけではなく、この世界に爪あと程度でも痕跡として残したい。
そんな趣旨で始めた。
その趣旨に皆からも、特に翔(ショウ)から強い同意も得られた。
代替人格なんて書いているが、そのそれぞれも、不完全ながらも一個の人格なのであって、己の人格を周囲に認知してほしい、または、自分が存在している理由を知りたい、などといった本然的な欲求をそれぞれにもっているのだから。
しかしこれらは、一般的には極めて信じがたい話ではあるだろう。
だから、話に真実性をもたせるため、この話を語る私のバックボーンも、できるだけ詳細に書いてきた。
というか、このブログの内容のほとんどは、まさに私のことだ。
私という一人の人間の生き様の真実さが増せば増すほど、彼女の実存性、一人一人が語る物語の真実性も増すだろうと考えて、敢えて赤っ端のような話も、赤裸々に開陳してきた。
彼女との出会いは、別れた妻が作ってくれた。
別れた妻が、私と出会い、最初に行ったことは、私を彼女に引き合わせることだった。
あれから19年が過ぎた。
私としては思いもよらない「解離性同一性障害」を彼女が抱えていることを、数年前に知らされる。
(当時はその言葉さえ知らなかった)
以来、私は各人格と親しくなっていく。
それは彼女本人が示したもの以上の親密さであり、色んな情報を、私を経由して彼女に伝えることもあった。
(当時の彼女は彼ら彼女らを、ある時は便利に思いつつ、強く拒絶もしていた)
笑ったのが、彼女本人と思ってよくお茶を飲みに出ていた相手が、実は彼女本人ではなく、シオリだったことだ。
シオリは、ずっと本人格を差し置いて彼女になりすまし、私との会話を楽しんでいた。
私はシオリ一人に、完全に一本取られ続けていたのだ。
(シオリ一人の手玉に取られていたことに、まったく不快感はない。ただアッパレと思うばかり。シオリの面目躍如ここに極まれり、だ)
偶発的というか、奇跡的というか、ありていに書けば事故であり、彼女にとってはただただ悲惨極まりないだけなのだが、ある時を機に、彼女は全代替人格と意思の疎通、意識や記憶の共有作業をせざる得なくなってしまった。
コレ、サラッと書いてるけど、普通なら死んじまうところだ。
即死ものですよ、ホント。
(事実、彼女も自殺を決意した)
彼女だからこそ、今まで生きてこられたのだ。
以来、二年余り、彼女は懸命に自分と向き合ってきた。
彼女としての人格の構築を、自力で始めた。
と同時に、今までは代替人格たちが行ってきた対社会的行動を、いきなり自分の責任で担いはじめる。
これがどれほど大変なことか!
普通に大きくなった人には、まったく想像できないだろう。
一般的に社会性は、段階を踏んで身につけていくものだ。
しかし彼女は、社会人として必要な社会性を四十代に入ってから(見た目は三十代だが)、急速に身につけ、発揮させなければならなくなったのだ。
彼女の見た目は、立派な大人。
なのに、その社会性は小学生レベル。
それを、誰も知らない。
誰にも分かってもらえない。
(理解できるわけないよね)
何が言っていいことなのか?
何がしてはいけないことなのか?
彼女は何にも分からない。
彼女には何もかもが「初めて」。
すべてが見よう見まねで、恐る恐る。
普通、中学生程度なら理解しているであろう基本的な社会性など、彼女には皆無だったのだ。
しかも、なりが立派な大人なだけに、問題はよけいにややこしい。
社会性は、決して一朝一夕には得られない。
それでも彼女は、不安と孤独に震えながらも、一歩一歩、着実に社会性を身につけつつある。
と同時に、強靭この上ない人格力も、徐々に形成しつつある。
これを、誰の力も借りずに(私も一切関与してない。そもそもこの二年間、電話もメールも、会うことすらもほとんどなかった)独力でやってのけてきているのだ。
これがどれだけ凄いことか!
彼女のことは誰よりも、場合によっては彼女以上によく知っているからこそ、私は言える。
これは驚嘆すべきことだ!
当人はまったく無自覚なのだが、私は彼女を、人類進化の希望だと捉えている。
かけねなしの、私の正直な評価だ。
例えば、TEDカンファレンスでの登壇者の資格を余裕でもっていると、私は真剣に思っている。
(それでもまだ十分に過小評価だ)
悲惨な人なら、ほかにもいっぱいいる。
地獄のような理不尽な話も、この世界には、掃いて捨てるほどある。
彼女の存在が示すものすごいところは、希望も何にもない無明の闇に生きてきながらも、そんなとこからでも人として生きていけるんだという人間の底知れぬ可能性を、それでも生きてありつる事実をもって、まざまざと見せつけてくれているところだ。
彼女にとっては、すべてがマイナスからの出発だった。
もう普通に絶望して、命果てても、誰もが「しかたないよね」と完全に納得しちゃうだろうぐらいの境遇だった。
それなのに彼女は、無明の闇に、自ら希望の灯をともして見せてくれたのだ。
もちろん、彼女は凄絶にのたうち回った。
今となっては、そうした過去の姿さえも神々しく思える。
彼女の歴史を誰よりも知っているからこそ、私は断言できる。
これは彼女だからできたことだし、彼女だから今も頑張り続けていられるのだ。
彼女の存在が希望だし、希望が服を着て歩いているとすれば、それはすなわち彼女のことだ。
地獄にこそ、本当の希望はある。
地獄にこそ、本物がいる。
地獄にこそ、真実がある。
汚泥に咲き
汚泥に染まらぬ蓮の華のごとく
それを見事に体現してみせたのが、彼女だ。
その存在は尊貴にして崇高。
まことに、まことにかけがえのない人である。
まばたきほどの短い人生で、これほどの人と出会えた歓喜を、どうして私が覚えずにいられるだろうか!
私もまったくもって無自覚だったが、私はこの方に会うために生まれてきたのだ。
そう考えるに足る環境に、あの両親の元に、私は生まれ落ちた。
ならばこそ、私はこの方を支え抜いてこそなし得る仕事が、必ずある。
私の一切の経験は、苦しみは、そのためであったのだ。
そのように了解するとき、あらゆる経験が、すべて一本の糸でつながる。
そしてその糸は、私の進むべき方向をも指し示しているに違いない。