夜、ベッドの上で一人いるとき。

日中、病院敷地外の散歩コースを歩いているとき。

一人で心静かにしていると、心の奥底に小さなシコリのような、心の底の小さいデッパリのような、なんとも形容の言葉がない何かを感じる。

例えて言えば、寝ている布団の下に、そら豆が一粒、置いてあるかのような、そんな感じ。


今日、回診で回ってきた主治医にも語った。

そしてこれが、私の心の問題に切り込む糸口になるかもしれないと考えてますと語った。

そのためのアプローチとしての、入院しながらの自分の来し方の振り返りだが、そうした方法論とは別に、この糸口を掴むためには、時間も必要なんだろうなぁと考えている。

私の奥底で、ゆっくりと静かに、何らかの変化が進行しているに違いない。

それには、間違いなく「時間」の要素が欠かせないはずだ。

さらに言えば「時」。

来るべき「時」にそなえて、私はさらに深く、広く、自分の内面を観察していく。



ここまでは自分の心の問題を、なんとかかんとか相対化できているんじゃないかなぁと思う。

昨日の「仮想共依存」の考え方は、先日、主治医との問診の中でも語ったのだが、私の話を聞きながら主治医は「スゴイ」と呟いていた。


心の病の難しいところは、自分の病気を、なかなか相対化できないところだ。

相対化という言葉で分かりづらければ、客観視という言葉に置き換えてもいい。


骨が折れたとか、胃にガンができたっていうのは、自分の身体の上に起こっていながらも、その病態を自分の目で観察できる分、容易に客観視できる。

病態を観察している主体である自分と、自分の病態を切り離して考えることができる。

(それでもあの男性は自らの胃ガンで、かなりメンタル的な動揺を見せた。フィジカルな病であっても、容易には問題を相対化して考えられるものではないという好例だ)


心の病では、病を観察している「私」が病気なのだ。

例えて言えば、極度の近眼の人が、裸眼で花を眺め、その特徴を語ろうとするようなものだ。

極度の近視である裸眼でいくら花を眺めても、決して細かいところまでは観察できない。

もしかすると、とんでもなく見当違いな観察をするかもしれない。


心の病を負った人が、自分の病をあれこれ自己診断してみせるのも、これと同じようなものだと思う。

しかし、近視には眼鏡による視力矯正で対応できるが、あいにく心の病を原因とする感覚のひずみとか思い込みなどを除去する便利な矯正方法はない。

ひたすら、自分の病と向き合い、ものごとを正しく認識し、病と上手にお付き合いできるよう、その人なりの方法を自分で探すほかはない。

そのためには、どうしても苦しむ。

しかし、その自分のなりの方法を見つける「苦しむ」時間は、必要なプロセスなのだ。


心の病といっても、結局、治す、もしくは寛解状態にもっていくのは自分なのだから。

医療機関や薬は、その助力のためにある。


そして私の過去二年間の試行錯誤は、自分の病を目の前に置き、それをチャンと正しく直視できるようになるための矯正期間になっていたのではないかと思う。

だからこその現在の入院であり、ここまで自分の病とそれにまつわる問題を、相対化できつつある理由ではないかと思う。



今日は、やけに前ふりの話が長くなってしまった...



昨日は、私の成人以降の人生は、「仮想共依存」にのたうち回っていたようなものではなかったかと書いた。


共依存には、相手がいる。

私の場合は、母親であった。

私と同じように共依存を抱えた母親は、どのような人生を歩んだのか、今日は振り返ってみたい。



とは言っても、私の母親は49で亡くなり、もういない。

私が25才、結婚もし、娘も生まれ、そろそろ孫の顔を見せに帰るかなどと話していた矢先に、母親は亡くなった。

日中、家で一人、風呂に入っていて亡くなった。

(風呂好きでとても長風呂だった。おそらくはその最中に心臓発作でも起こしたのだろうか。病理的な原因は分かっていない)


仕事から戻った父親が、湯船に沈んだ母親を見つけた。

父親は湯船から母親を引き揚げる。

おかげで母親の死は「不審死」扱いになり、葬式を出したくても、母親の遺体がないまま二日間を無為に過ごさなければならなかった。


私は、海外から来ていた大切なクライアントの帰国を見送りに来ていた成田空港で、母親の死を知った。

電話口で「だから早く帰ってこい」と言う妻の呼びかけに「何の冗談だよ」と答えたぐらい、私には完全に想定外なできごとだった。

「こんなことを冗談で言えるか!」の一喝で事の重大さを理解し、生後三ヶ月が過ぎた頃の娘も連れて、夜通し車を運転して故郷に戻った。


母親の亡きがらと対面した時の想いは、「何でこんなことのなったんだよ?」。

私が家を出て七年後の、早過ぎる死だった。



私の母親は、酒とギャンブルに狂い、家族に平気で手を上げる父親との、あまりに辛すぎる生活に、自暴自棄になりかけていた時代があった。

私が小学校に上がる前だったと思うのだが、母親は私たちに向かって「あんたらが大人になったら、私はお父さんと離婚する」と宣言した。


その時は、我が家になぜかあった小さな国語辞典をひき、「離婚」の意味をチラシの裏か何かに書き、テレビのブラウン管に貼りつけて、母親に「離婚してはいけない」と力説した記憶がある。

当時の私はひらがなしか知らなかったハズだし、辞書の使い方なんぞを教わっていたとも思えない。

加えて、いつもならヒステリックになった母親には恐怖を覚えるハズなのに、その時は母親の叫びに逆らってみせたのだ。

よくもまぁそんなマネができたものだと思う。

不思議だ。


そして母親が亡くなったのは、私が大学卒業と結婚を同時に果たし、社会人にもなり、子どもまでもうけた年であり、同時に妹夫婦も第一子出産を間近に控えたタイミングだった。

「離婚」ではなく「死別」になったが、彼女は自分の宣言通りの人生を歩んだとも言える。



母親が亡くなったのは、十月。

その半年前に、私は大学を卒業し、同時に最初の妻との結婚式を挙げた。

そして上京していた両親と妻を車に乗せ、伊豆半島を二泊三日で巡った。

簡素ながら、新婚旅行であり、親孝行旅行でもあった。


道中、伊豆の七滝に立ち寄った。

苔むした石で足元が危ないと思ったので、私は母親の手を取り、先導した。



母親の葬儀の後、母親が姉として慕っていた腹違いの叔母から、この時の私の行為を、母親が、それはそれはとても喜んでいたと聞かされた。


喜怒哀楽の中でも、取りわけて喜びの表現が乏しかった女性であった。

母親がほほえんだり、笑ったりするときは、どことなくいつもぎこちなかった。

そんな母親が、その喜びを伝えたくて、飛ぶようにその腹違いの姉のところに来たと言うのだから、よほど嬉しかったのだ。



思えば、明治男と大正女の間に生まれ、徹底した男尊女卑な空気の中、女性としての器量にまったくと言っていいほど恵まれなかった母親は、どんな思いであの父親と一緒になったのだろう?

(そもそもあの父親のDNAを私は継いでいるのか?という素朴な疑問もある。それは戸籍謄本をあげた時にも思ったし、父親の弟、つまり叔父から『コイツは本当に兄貴の種か?』と言われた時にも、ちょっと思った。誰も詳細を教えてくれないまま死んでしまったが、母親は一度、別の家に嫁いで、離縁された、つまり追い出された経緯があったようだ。つまり事故物件だったわけで、あの存在自体が事故物件な父親との婚姻はまさに『割れ鍋に綴じ蓋』な取り合わせだったのだろうと思われる。当然、そんな母親に選択権も拒否権もあろうはずがない。母親の兄や弟、つまりこちらも私には叔父だが、いつもやけにあのろくでもない親父の肩ばかりもつと感じていた違和感も、こうした背景があると考えれば、大いに合点がいく)


そして、失意しか覚えることができない結婚生活。

(父親は結婚当時、親戚や知人の厚意で八百屋をやったりしたが、店番を赤ん坊の私に任せ、自分は競馬に行くような、そんな体たらくだった。曰く、売れる量よりもネズミにかじられる方が多かったと、幼い頃に聞かされた記憶がある。その時の借財の返済に充てるため、祖母はかなりな無理を強いられたようだ。しかし、当人には罪の意識など、毛頭なかった。当人に悪気はない。そうしたことをおもんばかれる感性が、完全に欠けている人だったのだ)


高度経済成長の波に乗って、我が家の経済も劇的に改善したが、その間の母親の苦しみ、忍耐はいかほどだったか、まったく想像もできない。

その上、最愛の息子、共依存の相手である私が、高校卒業と同時に、大学進学のために家を離れ、遠く東京に出てしまった。

我が身は家にありながら、我がレゾンデートルたる存在、おそらく母親にとっては魂のようなものは、遠くの地に離れていってしまったのだ。


ほどなく母親は心を病み、精神科のお世話になる。


現在のように、精神病に理解があった時代ではない。

まだ「精神疾患患者=キチガイ」と認識されていた時代だ。

周囲の無理解。

父親からの容赦のない暴力(親戚から『なんとかしてやれ』と忠告されていた)。

なかなか恵まれない主治医。

そこに私の留年が重なって(私は大学生の留年なんて珍しくもないと思っていたが、電話で妹から『今、お兄ちゃんのことを家の中で話すのはタブーになってる』と聞かされた)母親は大いに苦しんだようだ。

(二回目の病気を理由とした留年は、あっさり認めてもらえた)



そうした辛酸の四十九年間は、もしかしたら私が彼女の手を引いた一事で、すべて報われていたのかもしれない。

私はただ、そうであってほしいと思う。