昨日、私の入っている病室(四人部屋)に、別の部屋から患者が一人、移ってきた。

ベッドは私の隣だ。


精神病院の閉鎖病棟なのだから、まぁ、まともな状態であるわけがないんだが、この人が、私の感覚、特に嗅覚と第六感に障る人なのだ。

そして、入院当初から、この人の行動に病的に深い何かを感じていた。

ハッキリ言って、関わりたくなかった人。

言葉さえ交わしたくない人。

なので、同室に移ってきた姿を見て、アッチャ~と思ったね。


そんな程度の外的な変化で、もう私の心理は揺さぶられる。

なかなか寝られねぇし、今朝の眠りは浅く、質も悪かった。


そして今朝、「おはようございます」なんて挨拶をしてくるものだから、心の中で舌打ちをしながら、軽く無視を決め込んだ。

したら今度は、さらにハッキリとした語調で「おはようございます」と言ってくるものだから、こりゃあかんと思って、ハッキリ言った。

けっこうキツメの目つきで、睨めつけるように...


私に挨拶は無用です。

私は病気の治療でここに入っているんであって、友だちを作るためじゃない。

なので挨拶は無用です。

(ホントにこの通りに言った)


その人は震えあがって「ごめんなさい」と謝ってしまった。

ありゃりゃ、謝ることでもないのに...

こりゃ相当にメンタルが弱いんだなぁ。

(ちょっとは手加減してやれという話ではあるが、私も患者だ。自分の治療環境は守りたい)


そうしたやりとりがあって、なおさら私の心にも「やり過ぎちゃったかなぁ」と、少しばかり痛みが走る。

おかげで昼寝も気持ちよくない。


とまぁ、同室の人間一人で、このざまだ。



心ほどあてにならないものはない。


外からの様々な影響によって、瞬間瞬間にクルクルと変化する。

まことに不安定極まりない。


心ほど大切なものはない。


心を離れては、人間としての存在はない。

人間を人間たらしめているもの、人間くさくしているものは、心の働きだろうか。


つかみどころのない心。

時に煩わしくもある心。

しかしとても大切な心。


心的外傷があるために、その外傷を遠因とする様々な障害があるために、私にとって心にまつわる問題は、なおさらとらえどころのないものになっていた。

だから七転八倒したし、結果として入院もしている。

同時に、だからこそ誰よりも、心を持つ私たち人間について深く思索をめぐらすことができていると言える。

貪欲さ、執念深さをもって。

そのような私なので、例えば理論物理学のような、心とはまったく無関係に見える英知にも、思索の糸口を求められるのだろう。

これは私に備わった、大切な資質だと思う。



今現在の結果から立ち返ってみて、七転八倒させてもらえたからこそ、私はここまで自分の心と向き合えたと解釈している。

二年前からの一連の挑戦がもたらしてくれた、もっと言えば35年前のあの時からの、さらに言えば六歳だか七歳の時のあのひらめきに端を発した必然的な展開なのだと、今だからこそ理解できる。

これが私の選択した人生だし、現時点での、その帰結なのだ。



平凡に生きようと思えば、そうもできたかもしれない。

(リーマン時代は確かにそのように考えていたように思う)

今までの自分の努力を冷静に振り返ると、平凡に生きるぐらいのことなら、朝飯前にできたかもしれないとも思える。

それでも人生の奈落イベントはあるんだろうが。

普通に苦しみ、普通に不安を覚えながら、川の流れに身を任せるように生きることもできたはずだ。



しかしそうしなかった。

いや、できないんだよ。

私って奴は、そういう構造なんだよ。



だったら、もう思い切るほかはない。



まれに指摘してくれる人もいるんだが、私はとても傲慢な人間だ。

そして傲慢であることに、功罪はない。

私が低い目的意識に執着すれば、傲慢な私が大いに罪をばらまくことになるだろう。

しかし、私が目的意識を高く高く掲げれば...


だから、私が生まれおちた事実、そして今もこうして生きてありつる事実に対して、そんなにも弱気になって、下手にでるこたぁないんだ。

私の人生の、この世界に生まれおちた目的においてこそ、その傲慢さを存分に発揮すべきなのだ。

他人の前で、ではなく、徹底的に自分に対してこそ!



人間とは、人類とはと考え始めると、止まらないのが私だ。

この歳になって理論物理学を学ぶのも、その思索の糧にするためだ。


そうした思索を煎じつめていくと、結局、すべては私の問題じゃないかと捉えられる。

身近で起こる些細な問題も、地の果てで起こっている凄惨な現実も、私にそうした自覚を持てと、強烈にアピールしているように感じられる。

そうやって、すべてが、私という極私的な問題に帰着する。

そういう思索の帰着があったればこそ、人間として生まれおちたことが超絶的に幸せなんだとか、人間は一人も漏れなく尊貴であるとか、そうした実感をもてたのだ。

なぜなら、そうした諸問題を起こしているとのは私・人間だが、それを解決でき得る唯一の存在も人間・私であるからだ。


人間には一人残らず、誰しもに、その可能性がある。

そしてその可能性を強く実感するものには、それが使命になる。

我が命を使いゆく目的となる。

その過程が、そのまま人生になる。

私はそのように生きゆく。


その自覚を強く持て。

さらに強く深く持て。

その自覚が強ければ強いほど、私の心も堅固になる。


それが私の心の病の処方箋となり、ひいては現代社会にとっての処方箋ともなりえる。

なぜかならば、私が、現代社会そのものなのだから。


そしてこうした考え方や生き様が、個々人に備わる潜在力を引き出す。

心をもっとも堅固になす。

だから私は負けてはならないのだ。


もっともっと心を深掘りするんだ。

絶対に崩れることのない、強固な岩盤に到達するまで。