今朝は、さらに気持ちよく眠れたように思う。
昼食後にも睡眠をとったが、二時間近くも寝ていた。
眠りは相変わらず浅い。
しかし、途中覚醒する回数は減っているように思う。
同時に、それなりに改質もしているのだろう。
それにしても、治療はまだ道半ばなんだろうなと感じられる。
頭が鮮明に回転するようになってきたからか、なおさらそのように感じられる。
静養としては、かなり進んだようだ。
しかし、入院しているからこそできることがある。
自宅での静養では叶わないことが。
今は、そうしたフェーズに移行しつつあるのではと感じている。
さて、昨日からの続きだが...
男性との状況で、特にその終盤において、心身共に疲弊し、部屋に戻って動くこともままならぬ状態になった。
そうしたひっ迫した状態で、私の心は激しく揺らいだ。
これを書いている今もそうだ。
(これを公開する今はかなり改善しているようだ)
前に散々、男性との状況について、社会性とか普遍性とか書いておきながら、今さらこんなことを書くのは卑劣きわまりないと思うのだが...
ここまで頑張ってきて、さらにまだ苦しまなければならないならば、それはそれで私は構わない。
(それにしても苦しいじゃないか。こんなのが続くのはイヤだ。という心理は、歪んだ私が狡猾に無意識下に隠し、意識の上には上らなかったようだ)
願わくば、サッサと人生を終わらせろ。
(そして残ったヤツらは勝手に困ればいい。その時になって後悔すればいい。もうざまぁ見ろの人生でいいんだ、ボクは!というさらに歪んだ感情がこの後に続いていた。それはかすかに自覚していた)
括弧内は、今だから「確かにあったな」と認められる「私」。
その当時の私には、決して受容できない、認められない、だから都合良くなかったことにされ、無意識下に押しやられていた感情。
こうやって、病院という静謐な環境で、一定期間の静養ができたからこそ、今、こうして向き合うことができている。
(本当に入院して良かったとつくづく思う。自宅でこんな作業は絶対に無理だ)
そのように、いつもどこかで考えていた。
これは自暴自棄だ。
精神的な自傷行為と言える。
その行きつく先は「死」であるのだから、以前のような肉体的ダメージで終わっていた自傷行為より、質は悪いと言える。
そして、周囲にとりかえしのつかない精神的なダメージを残すという意味でも、さらに質が悪い。
無自覚、無意識下という狡猾ささえ備えている。
私の中には、それほど空恐ろしいものが存在している。
それも私だ。
空恐ろしい私に振りまわされ続けてきた55年だったのだ。
そうした空恐ろしい私は、幼かった頃に家出を考えていた頃の私と、目撃者をしたてあげた上で自傷行為に走って見せていた私と同一。
幼稚で拙く、醜悪で狡猾。
幼さをまとった傲慢。
だから、今もって私を苦しめているのは、そうした私の中の空恐ろしい私だとも言えるのかもしれない。
(これ書いてる時の思いね。これを公開している今は、たぶんその質の苦しみはかなり軽減されていると思う)
今回の状況に目をやれば、まず私に自分をさらけ出して見せてくれた男性に対して不敬である。
男性との状況に憔悴する私を心配し、支えてくださった方にも不敬である。
私を唯一の理解者と認め、未来に最大の期待を抱いている存在への、裏切り行為でもある。
私に信念を貫く人生の貴さを教えてくれた大恩人に、仇をもって報いるような蛮行である。
さらには、自身に内在する無窮の可能性に対して、完全に不敬である。
私として生まれおちた事実に対し、決定的に不敬であり、怠惰であり、まったく許されない愚行である。
唯一無二たる自分を尊貴と認めずして、いかに美辞麗句をならべ、他者をして尊ぶがごときの所業をどれだけなそうとも、それは偽善でしかない。
どれだけのことをなそうとも、ゼロをかければ、答えはゼロなのだから。
つまり、私が男性との状況でどれだけの努力を重ねようが、内心で自身を貶めることで、私は全てを無に帰していた。
徒労とは、まさにこのようなことを言うのだ。
故に、私は病んだ。
自ら、空恐ろしい私によって自己治癒力を相殺した、損じたことになる。
空恐ろしい私に振り回されていたが故に、自己不信というゼロをかけあわせることになっていた。
だから私は、入院して静養せざるえないまでに、自分を損じたのである。
これは、まごうことなき自傷行為であろう。
同時にそれは、幼く、拙く、醜く、人をして不幸に引きずり下ろすという意味で悪でもある私の、自作自演だったのだ。
もちろん、いつも自己不信の闇に沈んでいたわけではない。
現実には自己不信と、それでも自分の未来を信じたい思いの間で揺れていた。
自己不信により傾けば、自暴自棄になる。
自分の未来を信じれば、元気になる。
しかし、揺れていたということは、とどのつまりは自己不信であったということだ。
自己不信と確信のに間に、中間の状態はない。
自身の可能性を徹底的に信じているか、そうでないかの二つしかない。
そして私は、自分を信じることに徹することができなかった。
心の中に、空恐ろしい私を棲まわせる隙を、心に残していた。
結果、形の上では徹しているように見えて、心の中でゼロをかけていたのだ。
それ故に、全ての努力は、歓びや勇気といった活力としてではなく、ただの負担として私にのしかかることになった。
その当然の帰結としての、今回の入院だ。
今から過去を悔いても詮がない。
私は徹底的に自信をもつべきなのだ。
自分が内包する潜在力を、自分の未来を、なにより私として生まれおちたという厳粛な事実を、傲岸不遜なまでに、徹底的に信じるのだ。
未来への、全てへの責任を担う覚悟によって、自身の幼稚性を、空恐ろしい私を完全に封じ込めるのだ。
そうであってこそ、未来はおのずと開ける。
なんとなれば、私が私であり続けるために、宇宙はあるのだから。
そこに絶対の信をおき、一生を生き抜くために、私はある。
それこそが、今生の仕事なのだ。