今日も気分はダウンぎみである。

今、勉強している内容が内容なので、どうしても「私の元気を定義する値の一つが低い」と言いたくなるのが、笑える。


こういう状態が続くところをみると、どうもこの原因は、一昨日から思い出してみよう、もう一度、頭の中でイメージしてみようとしていることなのではと思えてくる。


本当は思い出したくない。

しかし、ここをもう一度、ちゃんと自分で確認し、咀嚼しなければ、この先には進めそうにない。

本当に嫌いで、惨めで、情けない私がそこにいる。

その記憶の具体的な内容に入る前に、少し自分の幼い頃の記憶を整理しておきたい。



ここから昨日の続き...



それにしてもと思うのは、私の心の奥底にへばり付いたままでいる、心的外傷によって生まれたと思われる、幼いまま歪曲されている私だ。


入院から二週間が経過した。

毎日のように、しつこいくらい、文章に起こしながら自分を見つめなおしている。

そうした時間の経過と静養、内省を経て、私の中からあらゆるものを濾しとってみた。

そうした後に残ったものは、どうやら幼い頃の歪んだ感情のようなものだ。

今さら想い出したくもないのだが、いつまでも逃げまわっているわけにもいかない。

その作業をするために、私は病院に入っているのだし。

ここを避けて、私が本当に願う未来など、とうてい訪れるわけがないだろうと思うのだ。



かなり前に、私が幼い頃、母親から自分の存在を全否定される扱いを受けていた時期があったことを書いた。

母親からすれば「しつけ」のつもりだったかもしれない。

(彼女もまた、そのようなどう喝のもとで育てられたのだろう)

また、私が記憶している限りでは、かなりヒステリックになり、不安を怒りに変えて、私にぶつけていた。

私にはあまりの恐怖だったのだろう。

その多くを私は記憶していない。

ほとんどは、目撃者の妹から聞かされて知ったことだ。

(もしくは叱られている自分を頭上から見下ろしている私の記憶)



そのような環境で、私は父母への対処法を会得し、そこをベースに人間関係の構築方法を学ぼうとした。

どこまでも相手の顔色をうかがい、腹の中を読もうと試み、相手の望む私を演じる。

家庭という閉鎖環境では、うまくいった。

父母は実の子どもである私に、素の姿で相対してくれるから、話は早い。


しかし問題は家の外の人間関係。


うまくいかないことが多かったのだろう。

「なぜこんなに苦しまなければならないのに人は生まれてくるのか?」などと悩みに暮れた。

煩わしいだけの人との積極的な接触を避け、一人で遊ぶことが多かった。

そうした平穏な時間を過ごしていると「子どもは風の子!外で遊んでこい!」と、母親が無理矢理に私を、家から追い出しにかかる。

あれには本当に困った。

なにせ近所の子どもたちからすれば、私なんぞは遊び道具にするいいカモだったのだから。



話が脱線した。



私が八歳になる頃には、私の住む地域にも高度経済成長の波が訪れた。

当時、生産量世界一を謳う大規模製鉄所が地元にできたのだ。

長らく職が定まらなかった父親も、そこで働くようになった。

毎年、面白いぐらい上がる基本給。

一年で一万以上のベースアップだ。

父親の酒癖の悪さとギャンブル依存は相変わらずだったが、それでも経済的困窮が原因で母親がヒステリックになることはなくなった。


と同時に、私は本当によく勉強した。

そして、よく本も読んだ。

こうやって入院してまで理論物理学の本を開き、余剰次元理論を学ぼうとしている奴なのだから、後は推して知るべしだ。

体育はB型肝炎発症でずっと見学だったから除くとして、他の教科は概して好成績だった。

学業の面では、できる子だったのだ。


私は周囲から褒められる。

息子が褒められて、母親は自分が認められたかのように喜ぶ。

不器用に笑顔を浮かべて喜ぶ母親の姿を見て、私はさらに勉強にいそしんだ。

もらえぬこづかいに不満も言わず、わずかなこづかいを手に入れるために新聞配達もやった。

(おかげで小学校でかかる色んな経費を自分で支払うことになった)

家事も、母親が納得するように、そして妹と競うようにしてやった。

(母親の唱える家訓が「働かざる者食うべからず」だったのだ。それで晩餐になると吊し上げを喰らうのだから、そりゃ必死にもなるだろう)

概してそういう小学生だった。


そんな中で、私の代わりに、母親のヒステリーがぶつけられる対象になったのは妹だった。

(母親のヒステリーがなくなったわけではなかったのだ)

学校の成績が悪いと言っては、妹の存在を頭から全否定しにかかる。

(同性が相手ではあるし、おそらく母親自身の幼い頃の記憶も妹に重なって見えたのかもしれない)

そこに父親の凄惨な暴力も加わった。

その現場はあまりに凄惨だったので、私の記憶にさえ残ってないくらいだ。

(空気を読んで、現場を見なくてすむように身を隠していたのかもしれない)

妹を不憫には思ったが、まだ子どもであったし、家庭内という閉鎖空間でもあったし、自己保身を優先して、妹の件とはいつも距離をとっていた。

自分のことを棚に上げるような言い方だが、子どもは平気で非情になれるものである。



そうした家庭にあって、私の中の心的外傷が癒される機会は、ただの一度だってありはしなかった。

(妹にいたっては自分の心的外傷を見つめる機会すら今もってない)

誰も、私の中に深い闇がとぐろを巻いているなんて、気づくことはなかった。

誰も。

そう、自分でさえも。

へたに学業が優秀であったために、なおさらそうした心的問題は、あっさり見過ごされた。



しかし当時から、私の中の心的外傷を起因とする歪みが、私をして不意に、実に衝動的に問題行動へと走らせようとすることが多かった。

入院というこんな機会でもないと向きあえないことなので、この機に乗じて振り返ってみたい。

なぜならその歪みこそが、今もって私の心を衝動的に鷲づかみにし、よって今回の入院につながったと思われるからだ。



また長くなるので、明日に続く...