今日はなぜか元気がないように感じる。


朝から眠くはあったが、ただ眠いだけではないようだ。

いつもと同じ時間帯に、いつもと同じように本に向かい、ノートをとる。

しかし、その「本に向かいノートをとる」私が保有し、発散するエネルギーの値が、いつもより低い。

外部から私に与えられる刺激に、いちいち反応するのをためらうぐらいに、私の中のエネルギーの値は低い。

(だから多くのことに無反応か、いつもより浅い反応でいる)


いつもと同じように、就寝前の薬を服用した。

いつもと変わらぬ時間帯に、セロクエルを追加で一錠服用した。

いつもと同じように、低空飛行の眠りを続けた。

ここ二週間と比べ、昨晩から特に変わったことはなかった。

敢えて言えば、昨日の日中、調査で自分の部屋に、二週間ぶりに入ったことだけが、いつもと違った。

しかし、そんなことが、私の中のエネルギーの値を下げる効果を及ぼしたとは考えにくい。


光子を重力赤方偏移させるような、もっと言えば量子の振動数を低減させるような、私からエネルギーを奪い去る働きをなしたのは、いったい何なのだろう?

あぁ、ちょうど量子力学を少しでも頭の中にイメージしてみようと脳で汗をかいているところなので、私の表現まで偏ってしまってるw


しかし、これだけ私の中の「やる気」というエネルギーの値が低いのに、それでも小難しい勉強はできる。

ってか、難解な内容を理解するプロセスが、とても楽しい。

そして、こうして文章も綴れる。

これらなら、やろうと思える。

心のエネルギーにも種類があるのだろうか?



さて、昨日からの続き。


そのように考えると、少しでも他人より有利なポジションを得ようとか、金を得ようとか、目先の問題や損得勘定に右往左往し苦心惨憺する姿は、たとえて言えば、山のふもとで遭難している状態にも似ているなとも思えてくる。


各種ウェブサービスや各種SNS、あらゆる情報チャンネルを通じて、膨大な情報が、一瞬にして世界を駆け巡る。

そうした情報の中には、一見すると人生の幸福に資するように見える情報も、大いに含まれる。

いかにも誰もが「イイネ」したくなるような、リツイートしたくなるような、シェアしたくなるような、いわゆる「いい話」だ。

皆が群がるように、ネット上で、誰とも知らぬ不特定多数と一緒に、嬉々として共有しあう。



私はそこに、深い罠を見る。



自ら汗をかくことなく、ネットの上で「イイネ」して、まるで本当に良いことをしたかのような気分になる。

疑似体験とも言えない、ただのクリック、もしくはタップなのに。

自慰行為ほどの快楽もない。

もの凄く空虚だ。



よって、現代はますます、山のふもとのうっそうとした森の中をさまよう人が、拡大再生産され続けている。

その森の向こう側は、断崖絶壁かもしれないのに。



山のふもとでさまよい続けたくなければ、いつかは必ず「幸福」という山の頂を踏みたいと願うならば、まず自身の中に「幸福」を定義し、具体的なイメージを確立させ、そこから現実を眺め降ろす作業が欠かせないと思う。

そうでなければ、日々直面させられる事件に際して、なにをもって価値判断し、意思決定すればいいのだろうか?

頂から眺め降ろす視点がなければ、目の前の現実に振り回されるだけになってしまうんじゃないだろうか?

私はそんなのは、まっぴらごめんだ。

(今回はまさにそのような状況になったとも言える。なぜこうなった?それについてはまた後日)



掲げる頂が低ければ、ふもとから眺めることもできるかもしれない。

しかし、低い分、享受できる幸せも、それなりに低くはあるだろう。


私は、思いっきり高く頂を掲げた。

先に挙げた大前提がそうだし、ずいぶん前に書いた「私として獲得し得る最高の人格を獲得する」なんてイミフな目的もそうだ。

あまりにも高く掲げたものだから、ふもとたる現在位置から、ちっとも頂が見えやしない。

頂たる大前提から俯瞰してみても、直面する現実に対して右に行けばいいのか、左に行けばいいのか、まったく分かりゃしない。


だから結局、自分が掲げた頂を大前提に、現実問題に対処するための仮説を立てて、その仮説をもとに判断し、確たる未来が見えないまま行動するしかない。

そこに、頂にいたるルートが必ずあると、ただ信じて。


思えば、ずいぶん迷いに迷いまくった時もあった。

まったく見当違いな方向に、歩みを進めようとした時もあった。



しかし結果として、私は求めた頂へのルートを、確かに歩いているようだ。

それこそが、この上ない幸せなのだと、今の私は理解している。

(そこにちょっと私なりの問題があるらしいことを、今は感じている)


男性にしてもそうだ。

87になるまで大過なく過ごし、息子さんを立派に育て上げ、奥様をギリギリまで自力で介護された。

その人生は、誰がどう言おうが、とても立派だと思う。

とても幸せな方だと思う。

そんな人生に、私は賞賛の花を添えたかった。

ただそれだけだ。



それにしてもと思う。