今日で入院して丸二週間になる。
午後八時、就寝前の睡眠導入剤としてサイレースを二錠(けっこうきつい薬だ)とセロクエルを一錠、服用する。
それでも入眠には一時間から二時間かかる。
そうやって入眠しても、例えば今朝ならば午前零時ころ、目が覚める。
積極的に眠りにいくために、セロクエルをもう一錠、ナースステーションでいただく。
今朝は三時前にも目が覚めたので、さらにもう一錠服用した。
合計で三錠服用したのだが、さすがに三錠も飲むと、その影響はお昼過ぎまで残る。
なかなか頭が回らず、体もふらついて、少し辛かった。
薬の力を積極的に借りて、より深く、気持ちの良い睡眠を目指す。
入院中だからこそできる積極的な対処だが、それでもまだ私の眠りは浅い。
気がつくと、一時間ほどで目を覚ましている。
そしてまた、浅い眠りに入る。
一晩中、朝までこれを繰り返している。
三錠も飲んで、昼間もボォ~っとしていたのだから、ずっと寝ていてもよさそうなものだが、それでは生活改善にならない。
だから、働かない頭を抱えながら、今日も理論物理学を学んでいた。
睡眠の改質という意味では、この二週間、目立った進展はない。
さて、今日もとりとめもなく本題に入る。
誰しもが、人間として生まれ落ちているという一点において、超絶に幸せなんだと気づくと同時に、その気づきは「誰もがかけがえもない一人」なのだという、さらなる、そして当然な気づきへと、私を導いてくれた。
しかし現実は、いかにその真実、というかこの場合は理想といった方が適当かもしれないが、そのような理想から縁遠く見えることか!
私たちが生きる現実社会には、ありとあらゆる不条理が渦巻いている。
各種の技術は秒速分歩の発達を続けている。
なんならピコ速ナノ秒と言っていい状況じゃないだろうか。
しかし、それらが発達すればするほど、社会に渦巻く不条理も、加速度をつけてその闇を深くしている感がある。
技術の発達は、功罪両面を織り込んだ「利便性」を私たちにもたらしてくれる。
そして、その技術を応用・活用する者は、自身に内在する不条理を、決して一顧だにしない。
結果、技術に織り込まれた功罪両面が狡猾に使い分けられ、社会に「サービス」として提供される。
(より狡猾に使い分けるスキームを確立した者が経済的覇者として世界に君臨する歴史を、私たちは目の当たりにしているじゃないか)
そうしたサービスが、決して私たち人間が醸し出す「不条理」の抑止として働いてくれようわけがない。
(人間自体を解明し、人間を賢明にするための技術開発こそ急務だと思う)
また、グッと目線を落として、私の周囲の個々人というミクロの視点で眺めてみても、なかなか理想からほど遠い現実が私を取り巻いている。
あれほど懸命に男性を支える状況の中で、ドンドン疲弊し、摩耗し、憔悴しきっていく私の姿を見ても、自ら起ち上がろうという人は、極々一部の特殊な方を除いて、最後まで現れなかった。
(とても特殊な、特殊相対性理論的に言えば私とほぼ同じ基準系に生きる人だ)
かえって、私への非難の声をあげる人さえ出た。
まぁ、この辺は私の中では既に織り込み済み。
本当に現れた時は「エ?こんなところから?」と驚きはしたけど、結局は織り込み済みの事案だった。
私は状況の中で、上に挙げたようなことも含めて、常に色んな問題意識をもって思索していた。
そしてそれは当然、自分のやっている行動に、どれ程の意味があるんだ?という自問につながった。
例えば、とても極端な考え方だが、私がこの平和な日本の片隅で、一人の高齢者のためにどれだけ貢献しようとも、それが南スーダンで飢餓やあらゆる種類の暴力に晒されている一人のために、何かしらの貢献になるとは、誰も思いはしないだろう?
そう、誰も私の行動が、そうした人々への具体的な貢献になるとは、考えもしない。
実は、それこそが問題なんだ!
自分一人が、どう考えようが、どう行動しようが、どうせ何も変わりはしない。
お前一人で頑張る分には文句は言わないが(それでも言われたが)、だからと言ってそれで何が変わると言うんだ?
そんな考え方にとらわれている限り、決して自分も、そして社会も世界も変わらない。
結果として自らも、幸せにはならない。
こうした思考様式から生み出されるのは、例えば無関心であり、冷笑主義だ。
まさに私が経験した、それだ。
今の世界を覆っているのも、それだ。
そして、無関心で冷笑的な人は、自らも無関心に放置され、冷笑的な目で社会から眺めやられる。
他者との関係性の中に生きる人間が、どうしてそのような状況の中で幸せになれるだろう?
私には、まったく幸せをイメージできない。
私は、断固、そうした風潮を破る存在でありたい。
今現在の現実がどうあれ、一人の人間に内在する無窮の可能性開発と発揮を、私は決してあきらめない。
そうあり続けることが、不条理極まりない現実へのアンチテーゼとして存在するということであり、その飽くことのなき挑戦だけが、必ず人類をより良き進化へと導く唯一の道なんだと、私は考えるからだ。
そうした生き様を、たった一人になっても私が貫き通すことで、全てが活きる!
全ての存在が、きらめきを帯びて、その実在感を増す。
そう、私を影で非難した人でさえも。
私は、断固そう信じる。
だから私は、絶対に諦めることはできなかった。
負けるわけにはいかなかった。
それが、私の「生きる」ということであり、それこそが私の信仰でもあるのだから。
私は、男性との状況が私を極限状態へと追いやる度に、世界各地で繰り広げられている凄惨な現実の犠牲者を思いやりながら、だったらなおこれしきのことで倒れるわけにはいかない!と、一人で唇をかみしめていた。
最後の最後のところで、私の背中を支えてくれたのは、いつも現実に地獄を生きる一人の人間だった。
(そう、あなただよ)
現実は地獄なんだ!
だったら私の状況が困難を極めるのは、至極当然の事ではないか!と。
なぜなら、私もまた、同時代的に現実を生きているのだから。
このように、私の男性との状況は、個別具体的なものでありながら、同時に、社会性とか、もっと言えば普遍性さえも包含するものがあると、私は捉えていた。