今朝は、比較的早めに、かつ、楽に起きられた。

お昼前には布団を出た。

 

 

 

少しは改善してきたのだろうか?

 

 

 

その期待は、夕方には淡く消えた。

 

 

 

 

夕刻、男性宅を訪問。

男性は、自宅の押し入れにしまい込んだままだった段ボール箱を、一室に集めている。

そこで内容を確認し、遺(残)しておく物、人に譲る物、捨てる物と、分別作業をしていた。

作業の中で出てきたのであろう、ここ1週間前ぐらいから、アルバムに収められた昔の写真を拝見したりしていた。

その度に、昔の話に花が咲く。

 

 

 

 

今日も、そういった展開。

 

 

 

 

肩の傷の処置を行い、少々話し込んだら、あっと言う間に1時間経過。

その間、私は五感をフルに働かせて、男性の様子をずっと観察している。

顔色、声の響き、語調、表情の変化、話の内容などなど、ずっと観察している。

少しの変化も見過ごすまいと。

 

 

 

 

確実に、少しずつ、衰えは進んでいる。

そして、明後日の診断を控え、男性は無意識のうちに身構えている。

不安を覚えている。

それを明瞭な言葉では表現しない。

不安は覚えないのかと問うと、そんなことは全くないと応える。

 

 

 

 

しかし話題はいつしか、どうしても胃にできたガンに移る。

先が見えない不安に怯えている事が、様子からうかがえる。

 

 

 

 

そして「ワシはどうしてこういうことになったんかのぉ」と、自らの人生に不適切な行為があったからではないかと、自分を責めてみる。

その度に、私は「そんなことは絶対にあり得ない。逆に、誠実に頑張ってきたからこそ...」と、男性の人生を全面肯定する。

男性の顔に安堵の色が浮かび、そこからさらに、昔話に花が咲く。

 

 

 

 

ゴールデンウィークを挟んだここ3週間ほどは、ずっとこんな感じ。

 

 

 

 

帰り道、「アハハハハ、コレはヤバイかも」と、少々自嘲気味になる。

フィジカルな疲労に加え、メンタル的重圧の影響が、かなりな自覚症状となって現れている。

自分の部屋にたどり着き、しばらく音楽を流しながら、横になっているしかなかった。

起き上がることができない。

動くことさえできない。

たかが1時間で、精根尽き果てて帰ってきていた。

 

 

 

 

昨日に検査受診で、一通りのことはやり終えたと感じている。

おかげで、昨日来、自分の入院を真剣に考えるようになっている。

 

 

 

 

しかし、私が入院して、男性は大丈夫なのか。

身の回りのお世話は、周囲の方達に頼めるかも知れない。

しかし、どう取り繕おうが、私が目の前から居なくなれば、男性は「見捨てられた」と思うだろう。

挙げ句は「自分が病院送りにした」と思い詰めるかも知れない。

 

 

 

 

そこまで考えると、やはり今はまだ入院はないなという結論になってしまう。

 

 

 

 

しかし、この耐えがたくなりつつある苦痛を、こうした状況を、どう捉えるべきか。

どのようにすれば、この状況を積極的な意味合いで捉えることができるのか。

苦しい、だけど耐えよう、だけでは、いたずらに自分を摩耗させるだけだ。

それでは、私の中に、怨嗟の心を熟成させかねない。

それに、いかなる苦しみにも耐えるにたる理由とか意味、意義が認められてこそ、さらなる力も発揮できようというものだ。

そういう意味で、ここは自分を摩耗させるのではなく、力をつける、発揮させる局面でなければならない。

 

 

 

 

 

また、そういう「私」になってこそ、男性が病や老いに苦しんで見せてくれている理由をも、積極的な意味合いで見いだせるというものではないだろうか。

それが、私の未来を拓き、男性の人生の最終章に大きな華をそえることにもなりはしないか。

義母と実父の最期を思い返し、私は、そのように思った。

 

 

 

 

 

そのために、私は自分の原点に帰る。

 

 

 

 

 

なるほど、そういう事か。

ならば、こうなるんだな。

これでいい。

 

 

 

 

そこまでいって、やっと極度の緊張を解きほぐし、少しばかりリラックスできる。

そして、こうやって、私は毎日、学んでいる。