今日は、ここ最近としては珍しく、割と気持ちよく目覚めました。
お昼前には目覚めたものの、体の節々に感じる疲労感。
体力を使ったわけでもないのに、お昼頃の睡眠では、必ず出てくる症状です。
まるで、過去数十年分の疲れを、毎日、少しずつ吐き出しているかのような症状です。
普段は、こうした身体的な症状に加えて、頭が重かったり、軽い頭痛を感じたりもするものなのですが、今日はそちらの方は軽かった。
おかげで、割と気持ちよく目覚めることができたと思うのです。
ここしばらく、男性の事で緊張が続いていました。
無意識のうちに、勝手に緊張にスイッチが入っていたのですが、それが少し、解け始めているようです。
それは、夕方、男性宅を訪れる時の、私のようすにも現れていました。
そして、そうした私の変化は、敏感に男性にも波及します。
明日の打ち合わせを行い、洗濯物を預かって帰ります。
私の滞在時間は、30分にも満たなかったでしょう。
それ以上の滞在を、男性の体力が許しません。
今日は、家の外を、杖だけで歩いてみたそうですが、3メートルしか歩けなかったと言います。
それでも、自宅生活を諦める気持ちは、毛頭ないようです。
本当に、よく頑張って、一人暮らしを続けているなと、感心するばかりです。
気力、体力、認知力。
いずれをとっても衰え続けているのに、まるで自分の限界がどこにあるのか確かめたいかの如き、鋼の精神力。
感服です!
話は変わりますが...
私の過ごした年月も、気づけばいつだって、自分の限界への挑戦でした。
特に体力、気力の横溢していた学生時代は、張り切って挑戦しまくってました。
それで心身が悲鳴を上げて、大学に通うことすらできなくなって留年とか。
周囲からは「そんな生活を持続できることが信じられない」と感嘆されてましたが、私はただただ、限界に挑戦できることが嬉しかっただけです。
限界を突破する術を学べることが、嬉しかった。
金と力はないけれど、時間と気力と体力だけは山ほどある。
それが学生だ。
その学生の特権を、今、より一層有効に活用せずして、いつ活かすのか?
そんな事を考えていましたっけ。
それを、そのまま実行できることが、心から嬉しかった。
なので私は、「どうせ自分はここまでの人間だ」と、大学生以降の人生で、考えたことがありません。
(それまでは散々ありましたよ。それはもう、ヒドイものでした)
そんなことを、考えたくもなかった。
自分の限界ラインを設定して、それでもなお、おめおめと生き続けるとか、私には耐えられませんでした。
そんな人生、私ではありません。
今も、その思いは、些かも変わっていません。
否、より強固になっていると言えます。
あれだけの事がありながら。
これだけの事をしでかしておきながら。
しかし私は、大学生時代にルビコンを渡ってしまっちゃってます。
この年になって、おめおめと、自分の限界ラインを設定するとか、あり得んのです。
信念は、死んだって曲げません。
もうすぐ、現在の生活を始めるようになって、丸3年が経ちます。
今思えば、当初の私は、自分の置かれている状況を、舐めていました。
病気なんて、1年もあれば治るさ、ぐらいに思っていた。
大甘でした。
2年前に打ちのめされた。
どん底から、ヨチヨチ歩きを始めました。
その歩みは稚拙極まりなく、私をよく知る人間からは、嘲笑さえ浴びるような体でした。
でも、その時の自分にできることを、やるしかなかった。
どんなに稚拙でも。
惨めだった。
情けなかった。
寂しかった。
何よりも、そういう自分だということを、自ら認めなければならなことが、本当に、本当に、嫌だった。
たぶん、少しずつ、時間をかけて、そうした「認めたくない自分」と向き合うようになっていったのだと思います。
良くなったとぬか喜びをした時が、何度かありました。
その直後に、必ず凹む。
一喜一憂しないことを学びました。
ここ1年ほどは、迷わず前に進む事に徹しました。
今はこうする時だ。
次はこうしよう。
そうした自分の直感を信じて、決めたらまっしぐらに進んできました。
結果は、一切考えません。
考えるだけ、無駄です。
私にとっては、完全に未踏の領域なのですから。
考えたところで、その思慮に資する経験など、私にあろうはずがありません。
下手な考えは、自分の姿勢にブレを生じさせるだけです。
ただ信じる。
ただ徹する。
もちろん、心身の状態を考慮しながらではありますが。
そのような挑戦に徹して、本当に良かったと実感しています。
そのような挑戦ができること自体が、とても幸せなことなのです。
そして、そのような自分でいられる喜びよ。
今ならば、分かります。
あれは、こういう事だったのか!
これは、こうした事だったのか!
今まで漠然としか捉えられなかった色々な事が、鮮明に理解できるようになりつつあります。
しかし、それを言葉で表現する術がない。
やはり、生きてみせるしかないのでしょうか。
生きること、それ自体が、言論。
本物の言論は、行動や生き様へと、昇華されていくものなのでしょうか。
ぜひそれを、我が身をもって証明してみせたいです。
男性の状況は、依然、予断を許しません。
そうした男性との係わりが、私の人生に、大切な転機を与えて下さっている。
私は、そのように確信しています。
今日、男性宅を辞去する時、このような会話を交わしました。
男:本当に感謝している。いつも心で手を合わせている。見せられるものなら、この胸を切り裂いて、見せてあげたいくらいだ。
私:何を仰ってるんですか。これは順番なんですよ。私だって、お父さんの年齢になれば、やはり誰かのお世話になるんです。だから、これはただの順番。
男:それじゃ今度、私が生まれてきたら、私があなたのお世話をしなきゃならないね。
私:そんときゃ、頼みます!現れたら「やっと来てくれたのかい!」って、私、言いますからね。
(それらしい経験をしたことがあるんです。アレは本当に嬉しかったな)
おそらく私は、過去からずっと、こういう生き方をしてきたのでしょう。
あらゆる世界で、そうであったのでしょう。
いや、そうであって欲しいと思っています。
そして、これからも。