多くを学ぶ
今日はお昼前から、市役所へ、銀行へ、そして病院にドラッグストアと、全て入院中男性の用事をこなすことで過ごした。夕方には疲れ切って、音楽を聴きながら、椅子の上で居眠りをこいていた。
良音にくるまれて眠るのは、たとえそれがうたた寝でも、頭の芯の疲れをほぐしてくれるようで、気持ちいい。
私の趣味の一つがオーディオなのだが、今年に入って、少しずつ手を加えている。
加える度に、音楽を気持ち良く聴ける再生環境になっている。
趣味に没頭して、気分転換。
音楽を聴いて、気分転換。
本当に助かっている。
男性は胸部レントゲン検査や内視鏡検査を受けたらしい。
胸部レントゲンが分かるが、内視鏡検査の目的が不明だ。
粘膜を三箇所ほど採取して生検に回したそうなので、何かの病変を疑っての内視鏡検査だったことは間違いないと思われる。
そうした検査内容よりも、私がビックリしたのは、検査後に見せた男性の強い疲労感。
検査のために朝食を抜いたとは言え、体力と気力の萎えが強く表情に現れていて、ビックリした。
男性も、これでは月末に考えていた退院は、諦めざる得ないなぁと言う。
いつもは気丈で、自分のことは可能な限り自分で行い、人の手を煩わせることを潔しとしない方だ。
一度自分で決めたことは、ちょっとやそっとでは止めたりしない、有り体に言えば強情っぱりな方なのだ。
その強情っぱりの旗を、今日は引っ込めてしまった。
病院の廊下を、約15メートルほど一緒に歩いた。
病室との往復で30メートルにも満たない距離だと思う。
そんな短距離の歩行で、膝裏に力が入らず、痺れると訴える。
歩行はおろか、自分の体重を、両足で暫くの間、支え続けることさえ辛いようだ。
ベッドの上で安静にするだけでなく、可能なら歩行も励行していた10日間だったはず。
にもかかわらず、下肢に力が入らなくなっている。
男性との会話では、人生の最期を迎えることを前提とした話が多くなった。
少しの後悔も、ましてや恐れもない様子で、傍目には、いつかは必ず来る「その時」を受け容れているように感じられる。
男性との交流は、私にとても多くの気づきや学びを与えてくれている。
そうした機会を私に与えてくださる為に、私と出会ってくださったのではと思えるほどに、だ。
なぜ必ず死を迎えるのに、生を受けるのか。
苦しむことは必定なのにかかわらず。
人間とは何なのか。
この世界とは、宇宙とは何なのか。
そうした、幼かった頃から私を引きつけてやまなかった疑問、命題に、毎日のように新たな視点を与えてくれる。
全く想像もしなかった発想、生や宇宙の捉え方に気づかせてくれる。
まるで男性は、私の教師のようである。
おかげで、あらゆる事を素直に見通せるようになってきている実感を覚える。
今現在のみならず、百年後、二百年後の私たちの有り様まで、私の中で具体的なイメージを伴って想像できるようだ。
その為だろうか、以前に増して、目先の出来事に一喜一憂することが無くなってきている。
周囲の心の揺らぎに影響されにくいようになってきているように感じる。
徹して人の心に寄り添う。
その心に、私の実像が、否、人間の実像が、この世界の有り様が、如実に映っている。
男性からは、感謝してもしたり無いほどの恩恵を、私は受けているのだろう。
本当に有り難いことだと思う。