陽気変動に苦しむ
ここ一週間ほど、陽気の変動に心身が軋み音をたてている。頭がズゥ〜ンと重く、どうにも起きられない。
一時は一時半には起きられるようになっていたが、今はまた三時過ぎまで、許されるなら夕方まで布団の中で過ごしている。
陽気変動の振り幅が大きいからか。
それとも、私の感度が敏感になっているからか。
後者であれば、それは病状の改善を意味しているのかも知れない。
いや、そうであると思いたい。
私が手を付ける必要の無いものからは、なるべく身を遠ざけるようにしている。
自分の心身を守るため、不要な責任まで負わないよう、気をつけている。
周囲の目など気にしてはいられない。
たぶん、今、とても大切なところにさしかかっていると感じるから。
それでも、一件だけ、例の高齢男性のお宅だけは、毎夕、訪問している。
それは短時間のこともあるし、双方の体調が許せば二時間に及ぶこともある。
最近は、私の不調もさることながら、男性の体力低下が目に見えて進行しているので、男性の体力が、私との対話を許さない時もままある。
誰かに言われてやっていることではないし、誰かが知っている訳でもない。
必要に応じて、必要な人には、男性の状況を伝えることはしているが。
私は、この男性に大切なことを教わっている心持ちだ。
何を知ることになるのか、私には分からない。
男性には、この交流から私が何かを学び取ろうとしていることなど、露も知らない。
しかし、私の中の奥深いところから「必ず毎日行け」と突き上げてくるものがある。
それには、確かな理由があるはずだ。
内なる声を信じて、どんなにしんどくても、男性のお宅だけは訪問する。
人は、他者との係わりの中においてのみ、自身の姿を正確に認識し得る。
人は、他者との積極的な係わりに依ってのみ、成長することができる。
利他に徹する中にのみ、更なる人格の高みを望むことができる。
そのように、私は硬く信じている。
なぜ数ある歴史上の賢哲は、あれほど苛烈に他者に係わり続け、その福祉の向上、人権の獲得に挺身したのか。
それは、そうした行動が、他者や社会に人道的向上をもたらすだけでなく、自らの人格的成長をももたらす唯一にして最善の行動であるとの歓びが、常に心にあったからではないか。
そうした行動に挺身できる、我が身の幸せ。
そうした感動が、常に心を貫いていたからではないか。
私は、そうしたことを知りたい。
私の行動は、広い浜辺の一粒の砂粒ほどのものではある。
しかし、その一粒に真理を見いだすことができるならば、無限とも言える程の砂粒にも、同様に真理を見いだすことができる。
私はその可能性を、自分の中に開発したい。
そうであってこそ、自身の中に普遍性を確立できるというものだ。
たぶん私は、その為に、この生を受けたのやも知れぬ。