入院した男性の病室へは、毎日通っている。

「毎日、顔を出すとか、返って気をつかわせて迷惑にならないか?」などと当初は思ったが、男性の様子を観察していると、どうもそういう風向きにはならないようだ。
逆に、私の来訪を心待ちにしている風もある。

 

今日は午後の2時までユックリと横になり、スッキリと目覚めることができた。
今までのことを思うと、かなりの回復ぶりだと思う。

 

自分のことを片付け、病院に到着したのが午後の4時過ぎ。
男性の表情や仕草を見て、思った。
これはちょっとヤバいな。

 

 

86という年齢と、体質的な問題と、かねてからの持病に加えて、交通事故による打撲と骨折という、年齢を思えば過酷に過ぎる仕打ちを心身に受けた。
男性の心中を詳細におもんばかることは難いが、それでも、この状態がヤバいことだけは分かる。
一人にしておくことが、危ない。
家族からも、社会からも、私は見捨てられている、などというネガティブな感情に囚われることが、本当にヤバイ。
このままでは、心が折れてしまう。
現実が見せつける自分の姿を、そのような捉え方もできるだけに、この状態を放置しておくことは、本当に危ないと思う。


だから私は、顔を見せただけで帰ることができない。
腰をすえる。
身体に現れている症状の変化を、事細かに聞く。
必要であれば、痛む場所をさすりもする。
病院生活の不自由さを聞く。
不満も聞く。
病院から出られない故の心配事も、一つ一つ、丁寧に聞く。
その一つ一つへの具体的な対応を、約束する。
そうした諸々のネガティブ要素を、全部吐き出してもらう。

 

すると、顔に生気が戻り、男性の話にも楽しさが蘇る。
饒舌になる。
ベッド上での姿勢まで変わる。
男性の体力に負担のならない程度に、お話をうかがう。
そこまでして、男性に体力が残っている内に、辞させていただく。


以上のようなことをヒシヒシと感じるので、毎日、通う。

 

 

こんなことをして何になる?と、人からは訝しく思われるかも知れない。
自らも病気療養中でありながら、人の身を案じている場合じゃないだろう、などと思われて当然だと思う。
しかし、私には「何になる」、つまり自分への「リターン」は全く重要じゃない。
敢えて言えば、自分の身も重要じゃない。
眼前の現実を知っておいて、何もしないことの方が、自分への冒涜とさえ思う。
希有と言ってもいいこれだけの人生を歩ませていただきながら、何も行わないのは、全くもって宝の持ち腐れ。
これだけの経験をさせてくれた社会に、その経験で培った力をもって、何かしらの還元をなさなければならない。
それが私。
だからこそ、このような行動など、岩に爪を立てるがごとき所為だとは分かっているが、分かっていても、それを敢えて現代で行うのが、私の存在意味だと信じて疑わない。
そう信じ抜いて、耐え抜いて、貫き通してこそ、やっと分かることがある。
やっと見える景色がある。
今まで、いつもいつも、そうやって教えられてきた。

 

 

面映ゆいことを言えば、私がやっていることは、誰にでもできることじゃない。
言葉を通じ、五感を通じ、私の全存在をもって、相手に希望を送ることなのだから。
生半可な経験値や覚悟で、できることじゃないとは思ってる。
そして、実際にできているようなのだから、やはり私の経験値や覚悟は、生半可ではないということなのだろう。

 

 

だから、男性のための行動であるのだけども、それがかえって私の中で、自信の深化につながっている。
もっと確信を持て、もっと徹底しろと、自分が鼓舞されているようにさえ感じる。
そのように考えると、この男性は、そうしたことを私に自覚させるために、敢えて交通事故で宙を舞ってくださったのか、とさえ思える。

 

 

だから通う。
徹底して通う。
何かを学び取るために。
自分の人生を拓くために。

 

それが、私も歓び、男性も歓び、周囲の誰もが最大に歓べる結果に繋がると、私は信じて疑わない。