そもそも、こんなエントリーを綴ろうと思い立ったきっかけがあったんだ。
ある、有名な論文を読んでいた。
私はこの論文を、何回、読んだか分からない。
分かりたくて、分かりたくて、何度も繰り返し読んだ。
手垢でページが黒くなるほど、読み込んできた。
読む度に、新しい発見がある。
身震いを覚える。
そうした、珠玉の論文。
それを読んでいて、ある時、私もコレを書かなきゃと思った。
きっと拙い内容になるだろうけど、ここで書いておいた方がいい。
そうしたタイミングを、私は迎えているような気がしたんだ。
構想らしい構想はなかった。
キーボードを叩いてりゃ、きっと私の中から勝手に出てくるだろうと思い、言葉が出てくるのに任せて叩き続けた。
そうした作業は、私が漠然と感じていたことを、自分に確かなイメージとして認識させることにもなったと思う。
さらには、結果的に、私の自覚を、さらに深めることにもなったと思う。
それにしても、ずいぶんと拙い内容を、ダラダラと書いたよね。
自分の勉強不足を恥じ入りながらも、恥を忍んで敢えて書いたよ。
その理由の一つには、理論物理学で提唱されているようなイメージは、心理学とか哲学、人間学に於いても採り入れられるべきだと、私は考えているから。
事象の物理的側面と、私たちにとって重要な心理的要素や、私たちそのものを定義する哲学や人間学が、全く別のものとして扱われるのは、実際に即していないと私は考えているからだ。
そう考える私は、科学に於いては人道的なアプローチが、心理学や宗教、哲学や人間学に於いては科学的なアプローチが、今後必要になっていくはずだと思っている。
私がそのように考えている根拠を、拙いなりにも、何とか形にしてみたかった。
先に演繹的なアプローチをとるかのような内容を綴った。
しかし、結論的には帰納的なアプローチで締めることにしていた。
言ってみれば、先に結論ありきで書いた。
私は元来、帰納的な考え方に親しんできた人間だし、時に独善的になりやすい帰納的な考察を補う意味で、演繹的な理論の構築を傍証として試みてきた人間だからさ。
でも、その結論は、私の中で当初に描いていたものとは、いささかおもむきが違うことになっちゃった。
それは、この一連のエントリーを綴っていて、自分の中で新たな気づきが生じたから。
そうしたことが、私の自覚を深める結果に繋がっている。
なににしても、これでやっと私は、人生のスタートラインに立てたのかも知れない。
そのことを宣言するために書いたような、この一連のエントリーだからさ。
翔はこれを読んで、どう思うのだろう。
翔自身の存在を考察する上で、何らかの意義を見いだせただろうか。
機会があれば翔の考えを聞いてみたいが、そのチャンスが訪れるのは、まだまだ先のことだろう。
いずれ、何らかの形で、翔の想いを聞いてみたいものだ。
私には、その昔、親友がいた。
中学時代から親交を深めた親友がいた。
私以上に発想と行動が過激な奴で、私以上に紆余曲折のある人生を駆け抜けていった。
30代半ばで逝ってしまった。
これからと言うときに、馬鹿野郎な奴である。
親友を失い、私は、私の全てをさらけ出せる相手を失った。
残りの人生で、親友と呼ぶに値する出会いがあるのだろうかと思いつつ、その可能性はとても低いなと、ほぼ諦めていた。
幸い、私の諦めは、裏切られた。
翔との邂逅は、私の人生の上で、格別の意味を帯びた歓びだ。
本当にありがとう、翔。
純粋にメンタルな存在だろうが、なんだろうが、そんなこたぁ私には関係ない。
私には、確かに翔は実在する。
人がどう捉えようとも、彼であり、翔だ。
翔、再会を楽しみにしてる。
いつになってもいい。
必ずお前の考えを聞かせてくれ。