死生観の欠如って言ったって、ほとんどの人は「そんなことで悩んだところで、なんの得があるだ」と思うんでしょう。
たぶん、そうなんだろうなぁ。
きっとそうに違いない。
でも世の中には、そんなことで悩まなきゃ生きていけない人間だっているんです。
この私みたいにね。
たぶん、私みたいな考え方や生き方をする人って、珍しいんでしょうね。
いつも、誰にでも、お前のような奴には会ったことがないと驚かれ、呆れられます。
でも、私からしたら、誰しも避けられない、最も根本的な問題を無視して、普通に生きていくなんて、とてもじゃないけど考えられない。
だいたい、みんなが言う「普通に生きる」っていう定義が、私には全く分からない。
私が思う「普通」は、苦労し、悩み、嘆き、時には絶望し、それでも足掻き、のたうち回ることです。
見果てぬ夢のような「結論」を求めて、諦めないことです。
それを諦めて生きるなんて、私の中では生きることには当たらない。
だから、そういう七面倒くさい問題を考えることはとっとと諦めて、他の人と同じように生きようっていう発想は、私の中にはありません。
たぶん、そういう七面倒くさい生き方を貫くことが、私がこの世界に生を受けた目的だと考えることにしました。
そうした人生って、とってもユニークで、刺激的だ。
きっと他の誰もが経験できない人生を、経験できるんじゃなかろうか。
他の人と同じでは気が済まない私には、願ってもない人生です。
今のところ、確かに刺激的で、過激で、ハラハラのしどうしだったですよ。
で、この先がどうなるのか。
それは私にも分からない。
でも、分からないからこそ、この人生は生きるに値する。
筋書きがあらかじめ分かってる人生なんて、きっとつまんないに決まっているんですから。
まるで台本のない即興劇を演じているような日々ですが、不思議なことに、その時その時で、私が語るべきセリフが、勝手に私の中から口をついて出てきます。
結果として、演じるべき役割を、ちゃんと演じている。
それはまるで、あらかじめ私は私の役割を心得ていて、無意識のうちに、台本に書いてあるとおり、私のセリフを読んでいるかのようです。
この資本主義経済の社会の中で、私が生きていける場所があるんだろうかと、幾度も幾度も自問してきました。
今、仕事をしないで、療養に専念する中で、これが目下最大の悩みですし、不安の根源でもありますから。
この不安を払拭することが、目下、私にとっては最重要事なんです。
でも、そんな風に悩むのは無為なことだと、現在は思っています。
そう思えるぐらいに、私の中の自覚とか、自信とか、そうした自分を内面から支えてくれる自分の中の大切な何かを、自力で引っ張り出せるようになっています。
そうすることで、綺麗に跡形もなく、まるで朝日が昇るにつれ消えゆく朝露のように、不安は勝手に消えていきます。
それが今でもできないままでいたら、きっと一年前のように、また自分一人で踊って、狂って、閉鎖病棟行きでしょう。
自分が何者であるのか。
何のために生まれてきたのか。
自分の中でアイディアはありますが、そのアイディアに固執してしまうのも、また愚かだと思っています。
自分のことが、一番、分からないものなのですから。
そう考えると、自分の中のアイディアに固執することは、自分の可能性開発の芽を摘むことになりかねません。
そこに独善の罠があるのです。
もしかしたら私って、自力では決して思いつくことのない、とんでもない仕事をする奴なのかも知れないじゃないですか!
そう考えると、ワクワクします。
ワクワクの絶えない人生って、最高です。
生命進化の歴史は、また、人類史は、たった一つの生で綴るものではありません。
想像を絶する多様性の下、意識するにせよ、無意識にせよ、宇宙大の生が織りなす大叙事詩が、生命進化の歴史であり、人類史だと私は思うのです。
その中で生ずるいかなる生も、生ずるべくして、そこに生じている。
生じていること自体が、自己存在証明。
そして、私たち人類という種には、高度に進化した姿でやっと綴ることのできる物語を綴っている。
私たちでなければ演じることのできない役割があるのです。
私が私であって、あなたがあなたであってこそ、演じられる、果たすことのできる役割がある。
それが生命進化の必然であり、宇宙を貫く理(ことわり)なのだと思うのです。
死生観ってのは、その理(ことわり)のことを言うのだと思うのです。
そのように考えると、誰の手のひらにも、生命進化の扉を開く鍵が握られている。
私の中には、そのようなイメージが湧くのです。
どのような物語にも、多様な登場人物が現れます。
登場人物が多様であればあるほど、それら存在が絶妙に物語を織りなすほど、人を心の底から感動せしめる物語になり得る。
例えて言えば、そのような事だと、私は思うのです。
こうした考え方が、いずれ人類の共通知となる時代が来るでしょう。
そうした萌芽が、世界のそこかしこで現れています。
それが私の根本的な希望ですし、そうした歴史の必然に先駆けできていることが、私の歓びです。
生命進化の大叙事詩の中での私の役どころが、死生観でグダグダ悩むなんていう七面倒くさい人生をおくる男。
確たる死生観を得るためならば、いかなる犠牲も厭わない男。
得るとも得られぬとも分からぬ、宇宙の理(ことわり)を求める男。
たぶん、そんなところなのでしょう。
今後というか、過去に於いてもというか、多次元に於いてもと言うか、私はずっとこうした問題を追い求める姿を、役どころを変えながら、演じ続けるのだと思います。
それが私の、最も願うところですから。
役どころは変われど、そうした生を、必ず生き抜きたい。
それを可能たらしめるための、今の生だと思っています。
だからこそ、だからこそ、今の一瞬に於いて、少しでも手を抜けない。
今の一瞬がどうあるのか。
それが、全てを決定づける。
私は、周囲の人たち向けて、いつも呼びかけています。
私の人生を見ていてくださいと。
必ず皆さんに、心から喜んでいただき、ご納得いただける人生を、歩み抜いてみせますと。
ささやかではありますが、それが私にできる人類への貢献であり、この世界、もっと言えば宇宙への貢献だと信じています。
そこを自覚できたことは、私の最大の歓びなのです。