人間一人の存在は、宇宙全体というマクロな視点から見たら、サハラ砂漠全体から見た砂粒一つにも当たらないほど、微少な存在です。
しかし、素粒子的なミクロな視点で眺めると、たった一粒の砂粒でさえも、それは宇宙と何ら変わりません。
宇宙そのものと言える。
科学技術の発達は、私たち人類という種に、新たな視点を次々と与えてくれました。
私たち人類という種が、様々な技術の粋を懲らして、新たな目線を獲得していった、とも言えるでしょうか。
宇宙というマクロな視点に立てば、私たち人類という種の存在、そしてそのあらゆる活動は、取るに足らないものに感じられます。
この地球上で、人類がどんなに残虐なことをしようと、生命の大量絶滅を起こそうと、誰が泣こうが、誰が喜ぼうが、そんなことは宇宙全体からしたら、なんの問題にもならないことでしょう。
このようなブログを綴ること自体、実に取るに足らない。
しかし量子力学で扱うようなミクロな視点に立つと、様相は一変します。
宇宙の起こるあらゆる事象は、一部のダークマターなどの諸問題を除けば、理論物理学に綴られる公式で説明可能になりつつあります。
それと全く同じことが、一個に人間に於いても言える。
その地平に於いては、一個の人間と宇宙は同義です。
そうであるのだということを、最先端の物理学は、私たちに教えてくれています。
そしたことと同じことは、物理学に限らず、他の分野に於いても言えるのではないでしょうか。
例えば心理というもは、各個人個人で別々に存在するものという定義でいいのか。
各個人の心理そのものも、宇宙ではないのか。
各個人の心理が宇宙であり、各個人の心理の集合も、総じて宇宙ではないのか。
心理の働きが、宇宙に影響を与える事はないのか。
宇宙のありようが、心理に影響を与えることは多々見られるが、それは一方的なものなのか。
一個の心理を一個の次元的空間とみなせば、この社会こそ、他次元的空間とみなすこともできるのではないか。
もしかして、そうした有り様は、宇宙のありようと相似形を成すのではないか。
私は、解離性同一性障害と診断された人間を、友人にもちます。
この友人の、きれいに「解離した」とみなされる7名の私の大切な存在達、ある者は私と志を一つにする親友であり、ある者は娘であり、ある者は私をこよなく愛してくれる者でありますが、そうした私にとってかけがえのないこれらと交流する度に、私の目の前の視界がパァ~っと開かれていく思いをしました。
この友人も宇宙です。
宇宙の理(ことわり)に則っている。
ならば、このきれいに「解離した」とみなされる7人の私の大切な存在を内包している事実も、宇宙の理(ことわり)に依っている。
私は友人に会う度に、宇宙の深遠さ、厳粛さ、峻厳さ、有り難さ、ありとあらゆる表現をもっても描き得ない理(ことわり)を見、学ぶ想いをしております。
大きな歓びに包まれます。
この一事をもってしても、私は世界一の幸せ者であると思うのです。
宇宙の至る所は、生命の存在が許されない領域です。
量子力学的には、非常に高エネルギーな活性化された状態。
物質が安定的に存在し得ない状態。
ことに、有機物に対しては、致命的に活性化されています。
常に高エネルギーな放射線に晒されている世界ですので、複雑な構造をもつ有機物ほど、いともたやすく破壊されます。
同時に宇宙は、生命活動に寛容な世界でもあります。
そうした高いエネルギーをもつ放射線の被曝から免れる環境さえあれば、いともたやすく生命は発現し、生命活動を開始する。
それが信じられないぐらいの超高圧、高温下であっても、生命は発現し、活動する。
それが宇宙です。
そうした事実を知った私たち人類という種は、同じことはこの宇宙の至る所でも起こっているであろうと、推察し得るようになりました。
その可能性を証明したいがために、火星に探査機を送り、小惑星のサンプルリターンを試み、今後のエウロパなどの探査に期待するのです。
(そうした宇宙の特性が最も端的に表れている場は母胎ではないでしょうか)
私たち人類という種は、この宇宙で決して孤独ではない。
稀少かも知れないけど、生命の種としては、特別珍しいありようではない。
私たち人類という種は、そうしたことを知りたいのでしょう。
それは、私たち人類という種にのみが持ち得た、本然的な欲求です。
大金をかけて宇宙を探査したところで、眼前の貧困がなくなるわけではありません。
世の不条理が解決するわけでもない。
戦争がなくなるわけでもないし、全く金儲けにもならない。
それでも、私たち人類という種は、宇宙探査に多額の投資をします。
そしてその多額の投資に、大きな異を唱える声もない(全くないわけじゃないけどね)。
そうしたことは、とどのつまり、私たち人類という種自身が、自分が存在している意味を本然的に得たがっている証左なのだと、私は思うのです。
それにしもて、生死の問題です。
私たち一人一人は、そのまま宇宙です。
その前提に立つならば、宇宙に見られる生死を観察することが、生命の生死を観察することにも繋がらないか。
そうした考えに立って、少々、考えを深めてみたいと思います。
現在の天文学や理論物理学が示すところをそのまま信じるならば、宇宙はもともと一個の素粒子です。
ビッグバン理論を信じるならば、その一個の素粒子が、138億年前に大膨張を始めた。
数億年を経て後、最初の元素である水素を元とする恒星や、恒星が寄り集まった星雲などが発生します。
大質量の恒星ほど、短命です。
10万年ほどで超新星となり、恒星としての実質的な存在を終える星も多かったことでしょう。
そうした大質量で、短命な恒星は、私たちが存在するにたる十分な元素をもたらしてくれました。
超新星がばらまいた星間物質は、重力のゆらぎによってまとまりはじめ、その中心で新たな恒星が産まれます。
私たちの太陽も、原始はそのようにして存在したと考えられています。
多様な元素を大量に含む原始太陽の周辺には(とはいっても、そのほとんどは水素とヘリウムなのですが)、私たちの地球のような、岩石を主体とする惑星や、木星のような水素やヘリウムなどのガスを主体とする惑星が産まれます。
そして、私たちの太陽も、あと50億年程度で、その質量のほとんどを宇宙空間にばらまき、星としての一生を終える終末期に入っていきます。
天体としては微少ながらも一兆年以上も存在し、最期には黒色矮星になるのではと考えられていますが、本当のところは分かりません。
なにせ、この宇宙自体が誕生して、わずか138億年と言われているのですから。
一兆年は、天文学的スケールをも越えています。
そうして私たちの太陽も、太陽系そのものも星間物質として空間にばらまかれます。
そしていずれは重力のゆらぎに引き寄せられ、新たな星々の誕生に寄与していきます。
銀河系の中心に存在しているであろう大質量ブラックホールや、泡状に存在する大銀河団、今も加速度を増して膨張していると思われる宇宙そのものが、今後、どのようになっていくのか、分からないことだらけです。
そうした分からないことを間引いて考えても、星としての存在が滅することが、即、何も存在しない状態になることではない、ということが分かるかと思います。
極々大雑把に、乱暴に表現すると、ある時は輝く星であり、ある時は星間物質であったり、惑星であったりと、存在のありようが変わるだけで、ずっと存在し続けるのです。
原子レベルで考えれば、水素が核融合でヘリウムになったり、さらに重い元素に融合されていくだけで、原子そのものがなくなるわけではありません。
素粒子レベルで考えると、ことはもっと厄介で、イメージすることすら困難ですが(なにせ突然現れたり消えたりもするのですから)、宇宙の誕生のその時から今の瞬間に至るまで、何も変わっていません。
量子力学的なミクロな目で見ると、この宇宙の物理定数を信じるならば、不変です。
私たち一人一人も、そうした理(ことわり)の上に存在しています。
ま、だから「ハイ、そうですね」と納得できるお話じゃないでしょうけど。
先に挙げた私の考え方、私たち個々人の心理と社会のありようは、宇宙のありようと相似形をなすのではないかと考えから、私たちの生命も不変なのではないかという考えを、私は導き出しました。
導き出した、という側面もありますが、そのように教わってきた、という事実もあります。
でも、教わったままを、そのまま信じるなんて、つまらないじゃないですか。
だから、自分の人生に起こる事象の上に、その理(ことわり)を見ようと試みました。
生命活動をできる状態で発現した時は「生」の始まりで、生命活動を終える時が「死」。
しかし、それはあくまでも物理的な側面から観察した場合であって、生命そのものは普遍。
私自身は、そうした仮定の下に、そうした知見から得られた智恵を携えて生きてきました。
私の人生を実験フィールドにして、徹底的に、その仮定に沿って生きてまいりました。
そうした生き方、ありようを示せる生命は、私たち人類という種だけだな。
生命はあらゆる形態で発現しうるものだけど、こと人類というありように限って、生命はありようの理(ことわり)を自覚できる。
それが、私たち人類という種が誕生し、存在している、生命進化論的な意味なのではないのかな。
宇宙の理(ことわり)が私たち人類という種に要請している役割なのではないのかな。
人間を55年間やってきて、やっと、そうしたことに気づき始めております。
