数年前の話ですが…
生きている間に、メルセデス・ベンツとかいう高級車を所有してみたい。
そう考えて、知人に「ベンツらしいベンツを10万で探して」と相談。
「あと50万出せるなら」と言われ、「それでヨロシク」とモデル名も聞かないで購入決定。
そうして届いた車は、走行距離が6万キロ未満の1993年式のS500(W140)でした。
まさに「The ベンツ」が届いたのですw
購入時は、車検までの残期間1年で乗り捨てる予定でした。
しかしこの車は、私の持っていた自動車の概念を、書き換えてしまいました。
運転する楽しみを教えてくれました。
結局、一度だけ車検を通し、3年間乗りました。
その間、この車に投じたメンテナンス費用と税金だけで、軽自動車が買えそうな金額になりましたとさw(ここにガソリン代を足すと、普通車が買えちゃう金額にw)
2011年3月11日、東日本大震災当日、巨大な津波が街並みをのみ込んでいく様を、テレビ画面を通じてリアルタイムで見ました。
そこには、あの高級車メルセデス・ベンツが濁流にのまれ、流されていく姿も…
なんだ、高級車っていっても、津波が来ればその辺の自動車と何も変わらないじゃないか。
考えてみれば当たり前の話なのですが、その当たり前を目の前で見せられてみて、初めてそのことに思いが至ったのです。
あの楽しかった運転の記憶は、今も私の中にあります。
可能ならば、また、所有したいなとも思っていました。
しかし、3.11を目撃してからは、それを所有することにどれほどの意味があるのかと、自分に問いかけるようになりました。
欲にまみれ、欲に踊り、欲に翻弄される、私たち人類という種。
生物が利己的であるのは、決して悪いことではありません。
普通のことです。
それぞれが環境に適応し、それぞれが生存のための生命活動にいそしむ。
それが、生命の種全体の中での大きなサイクルの一部をなって、生命の多様性を支えることに繋がっています。
唯一、私たち人類という種だけが、智恵を用いて、自らの生存に必要とする以上のモノを求めてきました。
そうした、生命と種としての在り方としては、従来存在したあらゆる生命の種とは全く異なる特徴を、私たち人類という種は具えています。
そして、その特徴は、地球上の「生命の多様性」を脅かし、生命進化の歴史上何度目かの大絶滅を進行させています。
もしかして、私たち人類という種は、生命進化の失敗作なのでしょうか?
考えようによっては、そのようにも捉えられる私たちです。
なぜ生存に必要とする以上のモノを、私たち人類という種は求めるのか?
考えれば考えるほど、好奇心をくすぐられる命題ですが、考えれば考えるほど、頭の中が混乱する問題でもあります。
なので、問題を整理するために、一つの視座に限定して考えてみようと思います。
私たち人類という種は、考える種です。
色んなことを「考える」のですが、その色んな「考える」命題の中でも、命題中の命題は「私はなぜ存在するのか」という問題ではないでしょうか。
意識するしないにかかわらず、私たち人類という種は、いつも潜在的に「私はなぜ存在するのか」と、自己存在証明を求める種なのだと私は考えます。
そして、そのような問題意識を持つ背景には、「生」をうけたものは必ず「死」を迎えるという事実があるからだと思うのです。
さらに言えば、その「生死」の問題を、正しく洞察できていないからだと思うのです。
だから「生」きることで苦しみ、「死」を迎えることに苦しむ。
「死」ななければならぬのに、なぜ「生」きねばならぬのか。
まだ幼稚園児だった私が、「なぜこれほど苦しまなければならないのに、人は生まれてくるのか?」と悩んだその大元は、私たち人類という種には、生命であるが故の「生死」という宿命的性質と、その性質が故に、常に自己存在証明を求めずにはいられないという特質があるからなのだと考えるのです。
この自己存在証明を求める方法に、二つの道があります。
一つは、自分の中に、自己存在証明を求める道。
もう一つは、他者との関係の中に、自己存在証明を求める道。
前者の道は、観察者と被観察者が同体であるために、非常な困難が伴います。
いとも簡単に独善も陥りやすい。
その独善から逃れるためには、意識できる自己から出発して、潜在意識下を観察し、さらにはそのもっと深層のさらに深いところにまで観察の目を伸ばす努力と能力が必要です。
透徹した自己観察に徹し抜くのは、並大抵のことではありません。
人生をかける覚悟があっても、まだ足りない。
しかし、そうした視座の向こう側にこそ、本当の意味での他者と自己、相対的な意味での「他」と「己」ではなく、本然的には一つであり二つでもある「他」と「己」を見ることができるのですが、そのお話は、ここでは触れません。
ここで考えたいのは、後者の道。
他者との関係の中に、自己存在証明を求める道です。
人と自分を比べて、自分を規定するのが、一番簡単だし、楽なのです。
そしてこの方法が、一番ありふれてもいる。
例えば性別とか、年齢とか、肌の色とか、持ち物とか、財産、見目形(みめかたち)、名声、権力、健康等々、あらゆるモノが、他者との関係性に於いて自分を規定するための尺度、もの差しになります。
単純明快な例として、自分が人よりもたくさんの財産と高い名声、強大な権力を持っているとするならば、その人には周囲から羨望の眼差しが向けられるでしょうし、多種多様な多くの人が多種多様な目的で近づいてくるでしょう。
そうした人は、持たざる人よりは何らかの意味で自由度が高いと言えるかも知れません。
例えば旅行などの移動の自由度とか、各種サービスを享受する自由度とか。
逆に、自分が人よりも貧乏で、この世にいてもいなくても全く問題にされないと思われるほどに無名で、全く肩書きもなければ能力もないことを嘆き、全く自分は自由ではないと自らを規定する人もいます。
極々卑近な例で恐縮ですが、私はアップル社のiPhone6 Plusを使っています。
以前はiPhone4Sを使っていたのですが、2014年の発売日当日にiPhone6 Plusに乗り換えました。
しかし、私の周囲を見渡すと、まだiPhone4Sや5、5Sユーザーも多いようです。
そうした人からすれば、iPhone6 Plusを持つ私は「羨ましい存在」なのかも知れません。
iPhone6 Plusを持つ私も、周囲にiPhone4Sや5、5Sユーザーを見れば、優越感を覚えます(ま、その程度の男です)。
しかしその優越感は、2015年のiPhone6S Plusの登場で損なわれました。
次期モデルが登場すれば、さらに損なわれるに違いありません。
このように、私もiPhoneユーザー内での自分を、所有するモデルによって規定し、その結果に一喜一憂しています。
こんなことも、狭義の自己存在証明と言えるでしょう。
こうした自己規定は、常に他者との比較の上で行われるわけですが、その主体たる自分や比較対象の他者、そして私たちを取り巻くあらゆる事象は、常に変化し続けています。
金(かね)は使えば減っていくし、そもそも経済力ってのはあらゆるものの比較の上に成り立っていますから、持っている金が減らなくても、持っている金の相対的な価値が下がれば(具体的にはインフレが進んだりすれば)勝手に目減りしていきます(資本主義経済はインフレーション前提で成り立つ理論ですから、資産の相対的価値の目減りは避けられません)。
人は老います。
そして病気も避けがたい。
さらに、畢竟するところ、私たちは必ず死にます。
一人残らず、この世界から消え去ります。
他者との関係性に於いて自己存在証明を求める行為は、「死」という絶対不抜の前提条件を置いた途端に、意味を失います。
一般的に「死」は、存在証明を求める「自己」の消失と思われているのですから。
いずれ消失してしまう「自己」の存在に、他者との関係性の上で証明を求めたところで、それは自分が生きている間の限定的証明で、刹那的な意味しか持ちません。
そして私たち人類という種は、刹那的なものを尊びません。
より普遍的なもの、時や場所を超越して存在できるものに「価値」や「意味」を見いだそうとします。
例えば金(Gold)があらゆる金属の中で「資産」として価値を見いだされているのは、金という物質が他の物質と化合する事なく、金としての物理的特性を維持するからです。
物質として普遍的であるとみなされているからです。(その上、稀少です)
そこには、自らがいずれは「死」を迎える刹那的存在だという自覚があるからこそ、身近に普遍的なものを求める私たちの性質が垣間見える気がします。
人類という種には、自らは刹那的な存在ではなく、実は普遍的な存在であると覚知したいという、本然的な欲求があるのだと、私は信じています。
だからこそ、私たちはより普遍的なものを尊ぶのだはないかと、私は考えるのです。
とまれ、子に自分の持てるモノを相続させることをもって、自分の「死」を越えて財産を子孫へと伝えていくのだという考えや風習もありますが、それも長い目で見れば、必ず目減りする。
財産を相続することで自助努力を忘れ、自滅するケースだって多い。
結局、どうやったところで、他者との比較の上に自己存在証明を得ようとする相対的自己存在証明は、決して「死」という問題を超克できないのです。
そして、相対的自己存在証明は、私たち人類という種が持つ本然的な欲求を満たすことも、決してありません。
しかし現実を見つめると、私たち人類という種は、他者との比較の上に於いて少しでも優位に立ちたいと願い、行動しています。
普遍性なんて、なんのその。
優位に立つための努力なら、どんな苦労も厭わない。
言葉巧みに人心を操作することも、人の足をすくうこともためらわない。
そうした相対的な手法で、自身の内に普遍を見いだそうとしても、結局、徒労に終わる。
しかし、刻一刻と迫る「死」の刻限。
その恐怖を糊塗するために、さらに狂ったように欲求の充足にひた走る。
それは、「死」という問題から目を背け続けているからこそできることですし、「死」という問題から目を背けたいからこそ止められない行動なのかも知れません。
もしかすると、私たち人類という種は、「死」という問題を超克する術として、相対的自己存在証明を求めているのかもしれません。
限りある「生」を輝かせるには、持てるだけ持つ以外にないと考えるのでしょうか。
それ以外に「死」を超克する方法を思いつかないのかも知れません。
そのように考えを巡らせていると、現代に生きる私たちは、常に「死」という問題から目を背け、考えることさえも忌避することで生きている、「生死」の悪夢の中を彷徨う夢遊病者にも見えてきます。
だから私たちが生きる現代の世相は、乱痴気騒ぎ、とか、狂乱の宴のような様相を呈しているのかも知れません。
その挙げ句に、寿命に達してもいないのに、自らの生を絶ってみたり、他者の生を強引に絶っている事件が、あちらこちらで見られるのは、皮肉を通り越して、悲劇です。
非常に簡略化して、しかも乱暴に書いてます。
かなり内容的に間引いて書いたので(これ以上は私の能力を超えるので)、間引いたところは、これを読むそれぞれが埋めて考えてみて下さい。
私が書きたいのは、他者との関係性の上に自己存在証明を得ようとする生き方では、我が身を苦しめる結果しか得られないという事実です。
そうした現実が、日々、私たちの目前で繰り広げられています。
こうしたことは、私なんぞが声高に叫ぶまでもなく、古今東西の賢人達が主張し、警鐘を鳴らしてきたところでもあります。
私は「持つ」ことを否定しませんし、持てるモノならば存分に持って、存分に人生を謳歌すればいいと考えます。
しかし、持つことに固執し、他者との比較の上に安楽を覚えようとする生き方は、我が身を苦しめることにしかならない。
逆に、持てば持つほど、心の自由度を失いかねません。
私たち人類という種は、経験的にこうしたことを、既に知っています。
先人達が営々と積み上げてきた英知から、存分に学ぶこともできます。
しかし、そうした労をとるよりは、目の前の享楽に耽ることにばかりに意識がいっているかのような世相です。
世相がおしなべて「無責任」「無関心」な様相を示しているのは、世の人々が、「生死」にまつわる様々な矛盾に気づき始めている証左なのかもしれません。
気づいていて、そのあまりの深刻さと過酷さに己の無力を自覚し、絶望し、無思考に陥り、結果「無責任」や「無関心」に走って、自分の感受性に蓋をする。
感じることを諦めれば、苦しまなくてすむように思えますものねぇ。
そのように考えると、合点がいくように思えます。
なぜ「生死」という、私たち人類という種を狂乱の酒に酔わせるストレス源から、私たちは目を背け続けるのでしょうか?
その重大事に向き合うために、持てる英知を存分に働かせることができる、唯一無二の種であるはずなのに。
もそっと続けたいと思います。