私が中学生の頃でしたでしょうか、社会科の授業で「不思議なことを教えるものだなぁ」と違和感を覚えたことがありました。
資本主義経済についての授業でした。
私は、そこで教師が語った資本主義経済の仕組みが、不思議でしかたなかったんです。
付加価値の高い製品を生産し、諸外国で売りさばいて、利益を得る。
得た利益を原資に、さらに高付加価値の製品を生産し、さらに高い利益を得る。
その利益が社会に還元され、社会は潤い、発展していく。
それが資本主義経済です、みたいな内容でしたかね。
確かに、昭和50年前後の日本は、そのような仕組みでドンドン経済成長していました。
でも私はその時、素直に、こう思ったんです。
そうした製品が行き渡ってない市場がある内は、それで経済は回るだろう。
でも、物はいつか、市場に十分行き渡る時が来るだろう。
そうした市場も、いつかは自ら高付加価値な製品を生産するようにもなるだろう。
そうなったら、日本はどこで製品を売るんだ?
結局、日本の経済成長はどこかで頭打ちして、いつかは下降線をたどる時が来るんじゃないか?
どう考えても、そういう風にしか思えないけどなぁ~
そんな疑問が湧き上がり、なんでこんな矛盾したことを堂々と学校で教えるんだろうと、訝しく思ったのです。
昔からちょっと変な奴でしたw
そして今、確かにそうした時代を迎えました。
日本で物を作っても、売れない。
売るところがない。
逆に海外から物が流入し、日本国内にあっても日本製が駆逐される。
世界中、あっちでもこっちでも作ってるし、世界中、モノが行き渡っている。
日本ほど高度に社会インフラが整備されている国は、まだ珍しいですから、今後、諸外国の社会インフラが整備されていけば、日本の生産業にとって新しい市場が誕生するかもしれません。
そんな夢を、ついこの前まではBRICsの上に見ていました。
今もまだ、インドや東南アジアの上に見ているようです。
でもです、よくよく考えてみて、日本ほどに社会インフラが発達した国が世界中に発生したとして、その環境負荷を地球は受け止められるのでしょうか?
例えば、日本の原油輸入量は3,472,000バレル/日です(2013年 ワールドファクトブック(CIA))。
対して、世界の原油生産量は88,673,000バレル/日です(BP発表の世界エネルギー統計2015の値)。
日本の原油輸入量を人口(1.27111億人 2016.4 総務省推定値)で割り、現在の世界人口を73億と見積もってかけ合わすと、その人口をまかなうために必要な原油生産量は約20億バレル/日となります。
現在の20倍を採掘しても、まだ足りない。
そんなに採掘できるのか?
そんなに採掘して、地下資源が枯渇しないのか?
採掘できたとして、排出される二酸化炭素を、地球環境は受け止められるのか?
それとも、足りない分は原子力発電でまかないますか?
しかしです、核廃棄物の処理方法は、全く確立されておりません。
だったら、自然エネルギーに頼りますか?
その生産設備を整備し、維持してくために、どれだけの費用が発生するでしょうか?
誰がそのコストを負担できるのでしょうか?
私が中学生時代に教わった資本主義経済の仕組みは、既に破綻していると思われてなりません。
にもかかわらず、今も世界政治の中心議題は経済競争。
全ての物事は、いまだに経済性で決められていく。
視点を変えてみましょうか。
先のエントリーで、持つ者と持たざる者との格差が、ますます拡大していると書きました。
そのような現実に憤り、格差是正を求める声や動きが、世界各地でわき上がっています。
そんな動きに反し、持てる者は、既得権益の拡充のため、さらに巧妙、かつ、狡猾になっています。
巷間騒がれているパナマ文書なんてのは、リークの目的はさておき、そうした現実のごく一部が晒された例です。
世界の経済活動によって発生した環境負荷に、地球は悲鳴をあげています。
世界の経済活動で発生した格差によって、同じ地球環境に住む者同士が争い合っています。
私たち人類という種が生み出した歪は、今、その極を迎えています。
それでも止まない、富の獲得競争。
格差が生み出す歪みは怨嗟の声となり、各種紛争として現れ、世界のいたるところが戦場化。
それでも止めない、止められない。
これだけ物が行き届き、教育を受ける機会も増え、ありとあらゆる情報に接することができる時代です。
私たち人類という種の知的レベルは上がったかに思えるのに、逆に世相は混迷の度を増すばかり。
知的レベルは上がったけど、痴的レベルも上がっちゃった?
いったい何がおかしいのでしょう?
富、もしくはモノを求めてやまない欲求は、それが満たされる程に、さらに欲求の度を深めます。
それはまるで、決して満たされることのない欲求の肥大にさい悩まされる病に冒されたような姿です。
各種技術の革新的な発達は、その病に処方箋を与えないばかりか、かえって私たちを欲求の充足に狂奔させるという、病の重篤化を促進させているように感じます。
一度は充足しても、その充足感は「失うことへの恐怖」を産む。
故に、次はさらなる充足感を求めて、もっと過激な欲求の充足感を求める。
恐怖と欲求のボレロに踊る、私たち人類という種。
中には、失う恐怖から逃れるために、得る努力を放棄して部屋にこもる人まで続出する始末です。
持てる経済力の一部を当てて、そうした人類という種の病根にメスを入れるべきだという発想さえ湧かないほど、心の底から病んでいる。
私の目に映るのは、そうした心の病に冒された社会の姿です。
どうりで私が通う精神病院は、いつも満員御礼な訳ですw
つまるところ、物質的な欲求の充足は、私たち人類という種の心に、本当の満足も歓びも与えません。
物質的欲求の充足を旨とする資本主義経済は、人類という種が抱える病根を深めはしても、欲求充足の酔いから覚めさせることはありません。
それは、資本主義経済という仕組みは、人類という種の進化には寄与しないということです。
世界中で推し進めてきた経済競争は、人類という種の生存を危うくするだけだったということなのです。
私は幸いにして、日本という平和国家に生まれ、高度経済成長の時代に教育を受けることができ、バブル経済を迎える頃に社会人となりました。
私の世代は、日本経済史上、最も恵まれた黄金の世代、ゴールデン・エイジです。
日本社会がまだ経済的に貧しく、貧しいが故に道徳が尊ばれた時代も経験できました。
逆に、富を持っていることが当たり前のような時代も経験しました。
(あの時は、日本中が本当にイカレポンチだった)
富によって本当の歓びは得られないという事実。
富に耽ることの醜悪さ。
そうしたことを、私は山のように見てきました。
経済力と効率ばかりが追い求められた結果、社会や個人から道徳性が根こそぎ奪われ、個人も集団も経済でのみしか量られない時代になりました。
正直者がバカを見て、上手く立ち回れる小ずるい者がおだてられる。
人類史上、これほど理不尽な時代はなかったのではないでしょうか。
それもこれも、資本主義経済の大原則の下、ただただ効率性を求める教育が施され、効率性至上主義の社会を築いてきたからだと、私は思うのです。
私が社会科の授業で感じた違和感は、そのような教育が堂々と行われている現実に対して、だったのです。
教育は本来、人をして幸福に至らせるためになければなりません。
一個の人間が、自力で幸福を勝ち取れる力を養うのが、教育の場でなければなりません。
人をして人たらしめるために教え育む。
それが教育の本義です。
少なくとも私は、そのように教わりました。
そのような観点から見ると、人を幸福に至らせるための教育が、施されてこなかったのだと、私には思えるのです。
幸せになるための方法ではなく、効率的になる方法ばかりを教え込まれてきた結果なのだと、私には思えるのです。
私たち人類という種は、多くの犠牲を払いながら、多くの過ちを犯してきました。
そして今、その歴史に学び、過ちの根本に気づきつつあります。
その気づきを、人類知へと昇華させようという動きも出ています。
そうしたことが可能になったのも、また、科学技術の発展に依るところが大きいのです。
そのように考えると、最悪の局面を迎えつつも、最善のタイミングを得ているのが現代ではないかと、私には思えます。
私たち人類という種は、過去の賢人達が夢見た千載一遇のチャンスを迎えていると、私は考えています。
それは、生命進化の歴史に於ける、かつてなかったターニングポイント。
地球上の全生命を、生かすも殺すも、私たち人類という種の手のひらの中。
まずはそうした自覚を、私たち人類という種に属する一人一人が持つことが、全ての出発点だ。
私はそのように考えています。
そんなの理想論だ?
未来に希望を見るために、理想は語られる。
今、理想を語らずして、いつ、理想を語るのでしょう。
絶望するには、まだ早いのです。