普通に朝起きる生活が続いております。

この「普通」を失っていた、ここ数年。
嬉しいです。



最近はBABYMETALにはまっておりまして、今もBABYMETALを大音量で鳴らしながら、コレを打っています。
動画配信サービスでいくつかのアニメを見るようにもなりまして(しかも結構コアなヤツ)、アニヲタな友人から「スッカリチャッカリ、アニヲタっすねぇ」と賞賛される始末。


最近の私は、明らかに今までと違う嗜好を見せています。
なんか自分の中の、目覚めさせちゃなんねぇモノを、目覚めさせちゃったのかなぁ~、なぁ~んて思ってますw



今日はウジ虫退治を行いました。

近所を歩いていると、2匹のウジ虫を補足しましたので、速攻で駆除してやりました。
ウジ虫程度なので、放置していても、さほど社会的には問題になりません。
それでも放置していると、確実に少しずつ、社会のモラルが低下します。
人心が乱れます。
私は、そういう存在を看過できる人間ではありません。
人生、絶対に後悔したくないから。



日本社会は、揉め事を嫌います。
例え適正な目的に沿っていても、揉め事を嫌います。
そしてその当事者は、結果として煙たがられ、叩かれます。
「お前の言うことは、確かに正しいんよ。でもなぁ~」
叩いてくる人間に正面切って異議を唱えると、必ず言い訳を始めます。
今回も、まさしくそのような事例です。

そして周囲の反応は、やっぱり「揉め事はぁ~」。

ことの重大性を分かろうとせず、分かっても、係わることを拒否する。
事務的に処理して、後は知らんぷり。
無責任です。
自分の参加している社会に対して、無責任です。
私の行動が責められる遠因は、行き着くところ、この無責任に求められます。



私は、自分の人生に「後悔」という汚点を一点でも残したくないのです。
私が「私」として歩める人生は、コレ一度きりですから。
せっかく「私」として生まれることができたのですから。
だから私は、徹底して「私」であり続けます。
それ以外のことは、露ほども問題ではありません。



そして私は、参加しているこの社会において、自分の責任をキッチリ果たしたいと思っています。
だからウジ虫退治です。



明日も朝から、こうした「無責任」に端を発する問題に対処するため、いつもお世話になっている理髪店におもむきます。
真面目に協力した見返りに、理不尽な目に遭っておられるので。
その問題を知り、現状を確認した以上、私は責任を果たします。
「無責任」であり続けたツケを、キッチリ払ってもらいます。

ただねぇ~、そのツケが、少々デカいんだよねぇ~。
「その件、私も話は聞いてますよ」としたり顔で私に言う、これもまた責任の一端を負っている人間が、まるでことの重大さを認識していないので、キッチリ説明させていただき、「コレ百万単位でお金が飛んでいくお話ですから」と引導を渡しました。
言葉を失っておられました。
この方も、いつかは傍観者で居続けたツケを払わされる、いや、もう既に払い続けているのかも知れません。
可哀想ですが、それがこの方の人生です。



今日はウジ虫駆除で日頃の鬱憤を思いっきり晴らせたのですが、同時に、現実を再認識させられてウンザリもしています。

前回は、弱肉強食という自然界に於ける食物連鎖を表す言葉が、進化論に於いて誤用されているのではないかという、ま、そんなことを書きました。

 

私は日々の理不尽でやるせなくさせるニュースに接する度に、怒りと、自分が担った役目の重大さに、背筋が伸びる思いを感じてるのですが、それにしても昨今のニュースは、「人類という種はここまで愚劣になれるものなのか?」という事例を、嫌って言うほど見せつけてくれるものですねぇ。
理不尽ってのは、こういう現実を言うのですね。

 

人類という種以外の種も、ある程度以上、高度に進化した動物、特にほ乳類は、利他性を示します。
ペットの犬が、飼い主の家族を身を挺して守ったというお話は、時々、聞きますよねぇ。
買い主と「遊ぶ」ことを楽しむことも、ちょっとした知恵比べを楽しむことさえも、彼らはしてみせるじゃないですか。


私たち人類という種も、他者を守り、慈しみ、他者の歓びをもって自らの歓びとできます。
あらゆる生命の種の中で、きわだってその特質に富んでいます。
そうしたきわだった利他的な特質を観察していると、私たち人類という種の本質は、この利他性を発揮することにあるのではないかと思えます。
そして地球上で発生した宗教や哲学も、そうした人間にきわだった利他性を讃え、その利他性を発揮することを推奨しています。
宗教って、本来はそうした人類という種に備わる利他性を開発するために編まれた道具であった、とみなすこともできるんじゃないでしょうか。
私は、そのように思えてなりません。

 

しかし同時に、私たちは知っています。
私たち人類という種は、極めて残虐になれることを。
己の利益の為に、他者の犠牲を一切かえりみない、他者の痛みの上に己の利益を置いて、いささかの痛痒も感じないでいられる面ももっていることを。
それは、他のいかなる生命の種をもって比べても、比べきれることのない、比類なき残忍性だということを。
生命の進化史上、最も利己的な存在は、人類という種です。
私たちはその事を、心の底から知っています。


上の枕の話で挙げた無責任さも、そうした利己的な自己愛が大元なのだろうと、私は思っています。
だからこそ、私は無責任であることを拒否するのですが、ま、そこんとこは今はまだ、置いておきましょう。

 

現代と比べて、格段にシンプルな技術しか持っていなかった時代に於いても、現代であれば「非人道的」と非難されるべき残虐さを、私たち人類という種は既に遺憾なく発揮していました。
自己利益を最大限にするためならば、仲間を戦場に送り出して当然とするのです。(現代にあっても)
さらに生産性を上げるために、人間を分断し、人の間に差別をもうけ、労働力としてしか存在が許されない人非人(または奴隷)を置いて、それが当たり前の社会を築いたのです。(形を変えて現代に於いても)
そうした歴史の中で、人心を安んじ、少しでも平安な地域・国家を築くために、多種多様な宗教が生み出されたのであろうに、いつの間にか人々の信仰心、帰依の心、忠誠心を政治的、経済的に利用したいがために、信仰の言葉が巧みに「利用」されるようになっていきました。
宗教の発生から時を経る毎に、人心を安んずるはずの宗教から、人間性がへつられていったのです。
表面上は、言葉巧みに高い宗教性をうたいあげるのを装いながら、同時に利他性の「他」に、一部の「己」たちを置くための屁理屈をこね上げていったのです。
大多数の「利他性」を一部の「利己性」充足のための道具と化すために、宗教を「人心を操作する技術」に変容させていきました。(だからAmazonお坊さん便なんてもんができあがるんだよ)

 

そうした社会性が、有史以来、ずっと続いているがために、ここ日本であれば「長いものに巻かれろ」という言葉も生まれたし、お隣中国では「没办法(しかたがないよ)」という言葉が根付きました。
そうした人心操作術に長けた人間ばかりが指導者層に君臨し続ける現実を見て、この世界に広く「無責任」という風潮が広まっていきました。
今や利己的であることが尊ばれ、利他的行動は利己的な人間のアクセサリー程度に蔑まれています。
たまに徹底的に利他的な存在があっても、昔の「見世物小屋」の出し物のような扱いをされてしまいます。

 

18世紀中盤に始まる産業革命により、そうした流れは格段に加速しました。
そして21世紀を迎えた今日、第2の産業革命とも言える大変化、IT革命(情報技術革命)が、そうした流れを現在進行形で再び、猛烈な勢いで加速させているのではないでしょうか?
一見、私たち一人一人に等しく公開されているかに見える革新技術の数々は、私たちに各種の自由度(新たな自由を与えたんじゃなくて既存の自由度が上がっただけ)を与えてくれた反面、私たちを縛るものとしても機能しています。
富を持てる者と持たざる者との格差の、加速度的な拡大は、そうした技術革新によって固定化されています。
そうした現実に絶望しか見いだせない人たちが、一部の急進的な勢力に収斂されていき、その勢力拡大のための「捨て駒」として消費されています。
現代の風潮が、私の目にはそのように映るのは、私の錯覚でしょうか?

 

私は今、意図して、もの凄く極端な表現をしています。
私たちが、今、目にでき、耳にできる現実からイメージして欲しいので、敢えて極端な表現を選んでいます。
もっと丁寧に、言葉を尽くし、時間をかけて説明すりゃいいんでしょうけど、そんなにあなたはお暇じゃないでしょう?
だから、私たちを取り巻く現実の核となる部分を、ガツンとぶつけたかったんです。
できればここから、自力で咀嚼してみて欲しいです。

 

もの凄く論を端折りますけど、私たち人類という種を追い詰めているのは、私たち人類という種に内在する、比類なく強い利己性なんです。
「己」の「利」益のための性分なのに、それがかえって私たち人類という種の存在を、この地球環境ごと根こそぎ危機に追いやっている。
結果として、全く「己」のためにならない。


皮肉なことですが、シンプルに考えれば、私たちが利己的であることが原因なのです。
その一点から、あらゆる問題が派生しています。
現代社会は高度に組織化され、細分化され、本質を糊塗する技術にも長けていますので実に分かりにくいのですが、一つ一つの問題の本質を突き詰めていくと、そこには「利己」の2文字があります。

 

でもです、考えてもみてください。
そうした私たち人類という種の存在を許しているのは、宇宙なんです。
宇宙の理(ことわり)の中に、私たち人類という種の存在が記述されているから、私たちはこうして存在しています。
その証拠に、私たちは確かに存在しています。
あなたは、そこに存在していますよね?
私も、ここに存在しています。
これは、宇宙の森羅万象を貫く法則、理(ことわり)において、私たち人類という種の存在が許容されている、もっと積極的な表現を用いれば、私たち人類という種の存在が必要とされているからです。
この現実は、証明を必要としない「自明の理」です。
だって、明らかに存在しているんだもん!

 

ではなぜ宇宙は、わざわざ「自滅する生命の種」を進化の頂点として出現させたのか。
なぜ私たち人類という種を、ここまで利己的であらしめたのか。
宇宙という大前提、原点に立ち帰ることで、またさらに疑問は深まっていくばかりです。

 

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