いやぁ、このシリーズも10回目を迎えたかぁ!
途中で挫折するかも?とか、10回も続くのかなぁ、などとも思ってましたけど、まぁ続くものですね。
で、まだ続きそうですw


そうそう、昨日、「あれ?治ったかも?」と突然に気づきました。
治ったってのは、精神科にかかっている私の病気。
昨晩は、普通に眠気が襲ってきて(それでも入眠剤は使いました。眠りが浅いのは辛いですから)、今朝は8時頃に起床。
普通の8時間睡眠で、その後も眠気が襲ってこない。
ハハハ、ホンマに良くなってやがんの!w


ま、そんな個人的なことは、今は脇に置いておきましょう。


私には面白い甥っ子がいます。
非常に聡明な青年で、発想も斬新、行動力も抜群。
既存の概念に縛られない、否、縛られて堪るものかという反骨精神を感じます。


反面、若いが故の危うさもありますが、失敗こそ若者の特権です。
大いに失敗もし、転びもし、痛い思いをしていただいて、そこから何かを学んで欲しいなと思う、将来が楽しみな青年です。


この甥っ子と私が二人で向き合うと、いつも、なんだかんだと話が盛り上がります。
私も、まだまだ青い奴ですからw


以前、進化論を中心に話が盛り上がったことがあります。

 

 

 

彼と話をしていると、いつも「そんなことまで知ってるんだ」と感心することしきり。
この世界のあらゆる事象を、その本質まで掘り下げて理解したいという熱意を、彼の言葉に感じました。


その中で、ダーウィン以来唱えられている、適者生存の話になりました。
より環境に適応できた種だけが優位に存在することができ、適応できなかった種は滅びた。
そうした話の中で、弱肉強食という、よく自然界に於いて言われるところの言葉も出てきたのですが、そこで私は異を唱えました。


これからも弱肉強食のままでいいのか?
人類という種は、弱肉強食という原則に変わる、新たな生命繁茂の原則を打ち立てる要請に直面しているんじゃないのか?


その時、甥っ子が見せた、ハ!っとした表情が忘れられません。

 

 

進化論は、今も議論が続けられている分野です。
私たちが一般的に理解している内容では、実際に起こった生命の種の発生や進化を説明できないからです。


例えば地球の歴史上、カンブリア紀と言われる時代があります。
この時に、例えば三葉虫などで知られる古代生物が爆発的に発生します。
これをカンブリア大爆発と呼ぶのですが、実はこの時代の生物にさ先だつ古生物とカンブリア紀の生物を結ぶ中間の種とみなされる化石がほとんど見つからないことが謎とされています。


同様の謎は、人類の進化に於いても言えます。


一般的に猿と同じ祖先から分化して、現在のホモ・サピエンスに進化したと言われていますが、私たちホモ・サピエンスと現生人類、または猿人と呼ばれる種の間を埋める種の化石が見つからない。
しかも、人類の進化がとてつもなく速いスピードで進んだことが分かっています。
(と言っても、10万年オーダーですけど)
なぜそのような進化が可能になったのか?
未だに解明されていない謎です。


その謎に乗じて「宇宙人によって人類という種はもたらされた」であるとか、「神が自分に似せて人間を創造した」とか、各種の進化論とは趣を異にする説も、まことしやかに流布されています。


私たちは、分かりにくいものよりは分かりやすいもの、複雑なものよりは単純明解なもの、ありふれた論よりはミステリアスな論を好む性向があります。
それで、そうした論が絶えないのだろうと思うのですが、私はあり得ないと思っています。


検証が不可能な理屈とか、再現性がない理論とか、そんなものは理論たりえない。
そのようなものには説得性がないし、何より普遍性に欠ける。


しかし、私たちが存在するこの宇宙は、普遍的な存在です。
この宇宙内であれば、いずこであろうと同一の物理定理です。
そうした宇宙に存在する私たちが、私たちの意志とは関係ない、任意の意思によって生み出されたとか、あってはなりません。
そうした議論の余地を残すことは、私たちの存在をあやふやなものにしてしまいます。


それにしてもです、生命の進化はいつも突飛です。


面白い例に行き当たりました。


例えば、私たちの目。
そのレンズである水晶体を構成するのは、透明なタンパク質です。
タンパク質は20種類のアミノ酸が鎖状に繋がって構成されています。
仮に、このタンパク質が100個のアミノ酸が繋がって構成されていると想定すると、そのアミノ酸配列のバリエーションは20の100乗になります。
(タンパク質ってそれほど複雑な有機物です)
これは10の130乗に匹敵する数なのですが、その中のたった一つの配列を進化の過程で得ることができて、私たちの目は水晶体というレンズを得たのです。
10の130乗分の1です。



これは「天文学的」と呼ぶのも憚(はばから)れるほどの低確率なんです。
なにせ、この宇宙で最もありふれた元素である水素であっても、この宇宙に存在する量は10の80乗個ほどだろうと言われていまして、それを軽く凌駕している選択肢の数なのですから…


それほど膨大なアミノ酸配列のバリエーションの中から、なぜ私たちの水晶体を構成するタンパク質を構成するアミノ酸配列を獲得し得たのか。
偶然とか奇跡という表現でも説明し得ない低確率なのですから、そりゃオカルティックな説も出てくるわけです。


しかし近年、演算処理スピードが爆発的に伸びたことも相まって、この難問題への数学的アプローチが提唱されました。
この膨大な数を、コンピューターに数え上げさせたのです。
順列を利用するのですが、この演算の結果、現在の水晶体を得られる配列を一つどころか、無数に持っている事実が明らかになりました。
この手法が生命の多様性や、革新的な進化の有り様を説明する糸口になるのではと、期待されています。

(進化論以外の分野でも応用されているとてもメジャーな数学理論です)
つまり、奇跡的と呼ぶには余りにも奇跡的すぎる進化の革新性を、数学的アプローチで考察してみたら、全然奇跡的でなかったことが分かっちゃった、ってお話です。
(なぜその選択になったのかってのは、また別のお話ですが)


それほど進化論って分野は、まだ混沌としているのです。




さてと、だいぶお話が回り道をしてしまいました。




進化論における適者生存という考え方に、自然界における弱肉強食という考え方が重なって、種として強いものが勝ち残って、現在に至っていると思われがちですが、事実はそうではないようです。


そもそも弱肉強食は、自然界での生物の多様性を保つためのサイクルの中で捉えられるべき考え方であって、進化論で持ち出されること自体がアウトです。


そんな語句が、一般的な進化論理解の中で出てくるのには、それ相応の理由があるからだと、私は思います。


私が一番に考えるその理由は、西欧的な万物の捉え方にあります。


旧約聖書には、このような記述があるそうです。


『神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。(創世記1章26節ー30節)』


この部分の前後には色々な教説があって、それらをも取り上げて総合的に判断せねば創世記を理解したことにはならないのでしょうが、そうした面倒な作業を取っ払って、この部分だけで意味するところを考察すると、万物の存在の上に人間があり、その人間の上に神いる、と捉えることが可能になっちゃいます。
その神の目線で捉えると、人間は神により、万物の管理を負託された存在です。
それ故に、どれだけの種を絶滅に追いやろうが、どれだけの資源を掘り尽くそうが、どれだけ環境を改変しようが、それは神から与えられた権限なのだから問題はないのだと、極論すればそのようにも捉えらえてしまえそうです。
(聖書はそのような意図で編まれた物ではないと私は信じておりますが)
そして、事実、そのように解釈しちゃった人たちが、歴史上に、あまた出現しちゃったんです。
困ったもんだよ、人間は…


先の2度にわたる世界大戦、そして核兵器開発は、そうした発想が背景にある。
私にはそのように思えます。


東洋的な神の概念は、西欧や中東のそれとは、かなり趣が異なります。

ヒンドゥー教にせよ、仏教にせよ、日本古来の宗教にせよ、数多の神が登場しますが(一神教ではないってことね)、それらを一言で説明するならば、この宇宙の森羅万象を人の形に似せて表現している。
同じことは、古代ギリシャにおいても見られるように感じますが、そこに通底しているのは「人間の目線」です。
私はその道の専門家ではないので、断定的なことは言えた立場ではないのですが、私の立場で知り得た範囲内で観察すると、そのように見えます。



とまれ、ある種の兵器に「非人道的兵器」という呼称が使われてみたり(人道的兵器があるのなら見てみたい)、未だに核軍縮の道が見えてこなかったり、一部原理主義的集団による子どもの拉致や子どもの人間爆弾化、少年兵士化などの人道的に憂慮されるべき問題よりも、株価や金利のニュースの方が重要視される情報の価値の捉えられ方等、明らかに「強者の目線」でものが堂々と語られている現実に、私は「持てる人間の傲慢さ」を見る思いがします。


そのような、多数の弱者の上に強者が居座る現実を許容させるための言い訳がましい詭弁の根拠を、聖典と呼ばれる内容の極論的な部分観に求めている。
そんな現実が、当たり前になっちゃってる。
それが故に、弱肉強食という言葉が進化論を理解する中でしたり顔していても、不感症になってしまった現代人は気づかない。
弱肉強食という言葉が、誤解されたまま一人歩きしている様が、私は怖いです。




しかしです、そのような言葉があろうとも、私たち人類という種が本質的に傲慢さを具えていなければ、そのような愚行をするわけがない。
そのように考えると、私たちがそのような傲慢さを発揮できるのは、そのような傲慢さが私たち人類という種には本質的に備わっているからだと考えられます。
しかし、その傲慢さを無制限に発揮することは、私たちの存在そのものを危うくしますし、事実、危うくなっています。
それ故に、過去より現在に至るまで、数多の宗教や哲学が提唱され、自省と自制の方途が探られ、試みられた。
先に挙げた創世記にしても、人類という種を不幸の轍から抜け出させようという試みの上に編まれたと、私は信じたいです。


人類史上、数多の宗教が現れたのは、そうした人間に内在する危険性を制御するためでもあったと、私には思えます。


その、全生命を引き連れて、人類という種を自滅させかねない危険性の正体は何なのか。
そもそも、そんな危険性を内包した私たち人類という種は、なぜ存在するのか。


考えれば考えるほどに、さらに疑問は深まります。

 

 

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