今日は朝から病院に行っていました。
私が通う病院は、それはもう田舎にありまして…
こんな感じの風景の中を、てくてくと歩いて病院に向かいます。
そして、今日もこうして、文字を綴っています。
実はこの原稿、二日前から書いているんですけどねw
何を書くべきか。
どのように書くべきか。
毎度毎度、頭を悩ませます。
天文学とか物理学とかさぁ、そういうのを書いている内は楽なんですよ。
ここから先は、ちょっと大変ね。
書くべきことは、すでに私の頭の中にあるはずなのです。
私は自分の心の中にサーチライトを当て、書くべきことを探索します。
しかしそれは、イメージでしかなく、言語化されていません。
そして私は、また悩みます。
この私が抱いているイメージは、そもそもどのようなものなのか。
しげしげと自分の中のイメージを観察し、まず自らがそれを理解し、納得せねばなりません。
そして言語化を試みます。
いや、そもそもこの言語化こそが、イメージを理解する作業となっています。
どのような言葉をチョイスし、どのような表現にすれば、このイメージを表現できるか。
どのようにすれば、読む人に、より正確にイメージを伝えられるか。
私は縦横に言葉を紡いでみて、取捨選択を繰り返し、並べていきます。
言葉、もしくは文字というのは、非常に便利な道具です。
しかし同時に、実に厄介な道具でもあります。
一つの言葉が示唆するイメージは、その言葉を受け取る人によって、いかようにも変化するからです。
だからといってその一つの言葉を、幾多の言葉で定義しようと試みると、なおさら分かりにくくなってしまう。
本当に悩ましい。
そもそも、幼い私が苦しんだのも、言葉によるコミュニケーションに困難さを覚えたからです。
それでも私は、全力で言葉を紡ぎます。
誤解や曲解を恐れて、言論はあり得ません。
言論。
それは人類という種に固有の能力であり営為です。
人類という種が、他の生命の種とは明らかに違う人類に特異な特徴の一つは、全体重に比して明らかに大きな脳であると言われます。
そうした脳の発達に欠かせなかった大事件が、人類の遠い祖先に当たる類人猿時代の二足歩行でした。
なぜ私たちの遠い祖先に当たる類人猿が、木の上の生活に見切りをつけ、危険の多い地面に降り立ったのか。
その理由には諸説があって、まだ定まってはいません。
その諸説には触れませんが、移動にもっぱら二本の足を利用することで、人類の祖先は両腕を得ました。
と同時に、脊椎の上に頭蓋を置くという姿勢のおかげで、大きな頭蓋を得られるようになりました。(同時に腰痛という問題も抱えちゃったんだけどね)
大きな頭蓋は、脳の大容量化を受け止めます。
そうした肉体的な環境変化により、腕と脳、特に人類に於いては、脳が高次的に進化します。
そうした進化は、やがて道具の発明に続いていくわけですが、ここでは物理的な道具の発明ではなく、言葉や文字に注目してみたいと思います。
言葉の利用は、人類にのみ見られる極めて特異的な特徴です。
音声によって意思疎通を図る種は他にもありますが、言葉と言えるまでに体系化された意思疎通手段を持つ種は、人類だけです。
さらに人類という種は文字を発明し、情報の伝達や共有、蓄積を可能にしました。
文字によって、音声以外の手段で言葉を物理的に伝え、残す手段を得たのです。
一説には、原生人類は複数存在したと言われています。
その中で、現在の種が人類として残れたのは、より高度な発音機能を肉体的に備えていたからではないかという説があります。
近年のヒトゲノム解析から、原生人類間で混血が生じていたとも言われていますから、ことはもっと複雑であるようです。
しかし、そのような説が出るほど、肉体的により高度な発音機能を獲得し、かつ、言葉を発明できたことは、脳の進化を促し、種の存続に大きな影響を与えたであろうと考えられているわけです。
言葉は、人類という種が獲得した、最も優れた能力であり道具です。
今日の科学技術が発達した時代にあっても、言葉の存在は大きい。
例えば、コンピューター上で高度な演算処理を行わせるためにも、わざわざ人類が使う言葉に似せた言語を用います。
機械的な無駄を省くには、マシン語で記述するのが一番の方法なのですが、マシン語で複雑なアプリケーションを記述するのは、人間の脳では機能的に無理がありすぎます。
それに代わる方法として、各種のコンピューター言語が開発されてきましたが、それは人間の脳にとっては、実に理にかなった方法なのです。
つい最近では、DNA配列の編集言語というものまで登場しました。
現在ではDNA配列を編集するための各種ツールがパッケージ化され、商品として流通しています。
その編集作業には、高度な技術と環境が必要であったのですが、そこにコンピューター言語のようなDNA編集言語を開発・取り入れて、DNA配列編集のハードルを下げようというのです。
いやまったく、もの凄い時代が来たなぁという思います。
でも同時に、倫理的な問題発生をどのように抑制していくのだろうという危惧を覚えますが、何にしても言葉です。
それほど言葉というものは、人類という種の脳にはフィットする道具なのです。
道具には利便性が備わっています。
便利だから利便性。
便利でない道具は、道具たり得ません。
で、この便利というヤツが、実は厄介。
いい意味でも悪い意味でも、便利なのです。
(何が良くて何が悪いかなんて、受ける立場によって変わっちゃうので、そこは論じない)
利便性に、罪はありません。
その利便性を捉える主体によって、問題が生じます。
同じような事は、あらゆる道具について言えるわけです。
バカとハサミは使いよう、なんて戯れ言もありますが、それがハサミや包丁のような道具であれ、コンピューター上のアプリケーション・ソフトであれ、なんであれ、道具はすべからく、その道具使用者の意図によって、人や人が依って立つ環境に、良くも悪くも機能します。
そうした道具の中でも、言葉ほど、人類らしい道具はありません。
人類を人類たらしめている道具、能力と言えるのではないでしょうか。
ならば逆説的に、言葉をどのように扱っているかを観察することで、人類という種が孕んでいる問題をあぶり出せはしないか。
なぁ~んてことを、考えてみました。
識字率という指標があります。
文字を「読み書き」できる人の人口比で、その地域の文明度を見るのです。
文字を「読み」また「書ける」人というのは、大昔のヨーロッパにおいては、支配者階級に限られていたようです。
為政者や聖職者のような階級者が持つ、特権的な技術だったと言えるでしょうか。
(近年の考古学的な発見と研究から、聖書の原典が編まれた地域では、原典が編まれた古代から、広く庶民にまで文字が普及していたとされる考察もされていますが、異論も多々あるようです。このような発見と研究を支えたのは、最先端の分析技術だそうですから、今後の研究成果が楽しみです)
近代に至るまでヨーロッパに於いては、学問を修めるにはラテン語の習得が必須であった時代が長らく続きます。
(今でも多くのラテン語が使われていますし、日本語にもラテン語由来の言葉があります。現在でもラテン語で書かれる論文もあります)
ラテン語はローマ帝国の崩壊とともに滅びた、枯れた言語です。
(今でもバチカン市国の公用語はラテン語ですが、古代ラテン語で日常会話が行われているわけではありません)
そのラテン語で書物を著し、学問する。
枯れた言語であればこそ、言語としての曖昧さが排除され、学術的な記述に適しています。
でもそこには、学問が一部の支配者階級のみにしか許されていなかったという閉鎖性も読み取れます。
なにせ、一般的な会話では使われない言葉なのですから。
後にグーテンベルグにより活版印刷が発明され、初めて聖書が印刷されました。
この出来事を契機に、世間に広く印刷物が流布するようになります。
時はルネサンス時代。
多くの書物が、庶民にも親しまれていた言葉でも印刷されていったことでしょう。
活版印刷が一般的になることで、教会や聖職者の専有物であった聖書を庶民が手にするようにもなりました。
それまで庶民は、聖職者の口から伝え聞く以外に聖書の言葉を知る術はなく、聖書の文言を自らの力で考察するなどという自由は存在しなかった。
活版印刷の発明と出版は、庶民の識字率の向上をもたらし、学問の門戸を広く大衆に開く契機になったことでしょう。
日本を含む東洋では、少々事情が違ったようです。
日本に於いてもその昔は、文字を「読み」「書ける」人は、一部の階層に限られていました。
しかし、ヨーロッパでグーテンベルグが活版印刷を発明するよりもかなり以前から、印刷技術は発達し、一般化もしていました。
そこには、古代中国から伝わる、全ての出来事を記録に残さずにはいられない執念のような歴史が背景にあります。
また秦の始皇帝頃より始まった、文字によって国家を統治する徹底したシステムが中国で確立されいたことも、深く関係していたことでしょう。
(東南アジア諸国は近代史にあって、タイのような一部を除きヨーロッパ列強諸国に植民地支配されました。その過程で、独自の文化、言語、歴史は徹底して破壊されました。そうした国々が自国の歴史や文化を取り戻すために研究したのは、史記のような中国の歴史書です。中国の司馬遷はあまりに有名ですが、彼の司馬遷に代表されるように、歴史を書き残すことを使命として存在した一族まで中国にはありました)
主には木版画のような印刷術でしたが、それにしても膨大な印刷物が発行されていたようです。
さらに日本では江戸時代から、寺子屋のような私学を設立され、一般庶民の識字率向上に貢献します。
当時の日本の識字率は世界一だったという説があります。
ヨーロッパから日本を訪れた人々が書き残した記述にも、ボロをまとったような労働者でさえ文字を読み書きする姿を見て大変に驚いた様子が見られるそうです。
そのような歴史的背景を持つ日本は、母国語であらゆる学術研究が行える、希有な国家でもあります。
明治期に、ラテン語などのヨーロッパ言語で記述された学術用語を、全て日本語に翻訳しちゃったんです。
そうした、執念にも似た知識欲が高いお国柄なのでしょうか。
言葉は、あらゆる学問の大地です。
あらゆる概念は、言葉によって記述されます。
そして識字率の向上、文字の普及は、学問を大衆に開放し、巷に埋もれていた才能を開花させることに繋がります。
そうして、現代があるわけです。
このようなことを書きながら、そうやってもたらされた現代の様相に、私は大きな危惧も感じています。
情報化社会と言われて久しい現代。
多くの人がネットにぶら下がっているのが、当たり前となった現代。
ネット自体も道具ですが、その道具の上で、いかに言葉が希薄化してきていることか。
たやすく人の言説に「イイネ」し、「シェア」し、「リツイート」する。
自ら情報を漁り、言論する努力を放棄し、人の言葉を安易に追従してことよかれとする。
さらには、言語化の努力が無用な仮想空間に耽る。
言論の努力を払わないと言うことは、自ら考察しないということです。
学ばないということです。
ネットの利便性に酔い、自ら言論する努力を放棄してしまっているかのような現実があります。
それは先人が獲得してきた「学問する自由」を、自ら放棄している姿に、私には感じられます。
歴史的に見れば、それは逆行であり、自らを被支配の階級へとおとしめる行動です。
こんなに言葉を大切にしない時代は、過去にはなかったんじゃないのか。
多くの人と言葉を交わしていて、そうした実感を抱くことが多くなりました。
人類という種は、言葉という、優れた道具を得ました。
言葉を縦横に操り、異なった文化圏や過去の知見と交わり、その中から新たな知見を得てきました。
しかし現在、そうして蓄積されたアーカイブに分け入ることを放棄し、自ら考えることも放棄しているかのような、易(やす)きに流されている現実があります。
言論と言うには、あまりに稚拙。
今や温故知新という四字熟語は、死語です。
確かに言葉は、私たち人類という種に固有で特異な発明であり、能力です。
言葉によってあらゆる事象を理解し、表現する力を得ました。
そのような力を持っている生命の種は確かに人類だけであり、そのような意味では、人類という種は生命進化の頂点にあるように見えます。
しかし、生命進化の歴史上、特筆すべき能力を得ながらも、それで得られた力に酔い、その恩恵を踏みにじるような愚行をはじめてしまう人類という種。
こんなことで私たちは、本当に生命進化の頂点に立っていると言えるのでしょうか。
私の中の疑問はますます大きくなります。
ウ~ン、拙い(;´д`)トホホ…
