昨日は、近隣に住む親しい人たちと歓談の機会をもちました。
皆で一致協力し、少々、高い山を越えた後の集いでした。
年齢的には、一番下が私世代で、上は90近い老婦人もいます。
実に多士済々な集まりでしたが、これまた実に和気藹々で、心が朗らかになる楽しい一時でした。
私は皆の前で、病状が改善しつつあることを報告しました。
すると、本当に良くなってきたね、傍目にも分かると、賛同と喜びの声が寄せられたのです。
ホウ!自分では自覚しづらいのに、傍目にはそんなに変化が顕著に分かるのかと、少々驚きもし、安堵もし、歓びもしました。
その時ふと、三次元的な私たちが、高次の空間を観測できないのと、少し似ているなと思った次第です。
私は私という次元を離れて自分を観察できませんが、他人は私という次元の外に立って私を観察できるのです。
面白いなと思いました。
話は思いっきり脱線しますが…
自分では自分の生活ペースを大切にして、体をいたわりながら、自分にできることをだけに集中して頑張っていたつもりでしたが、それでも少々、心は緊張せざるを得ない生活であったようです。
最近になって、緊張の糸が切れたからでしょうか。
徐々に体調を崩し、一昨日には少し不調を自覚する程度に。
昨日は、刻々と不調の度が増していくのを感じていました。
夕刻には腹痛が増すばかり。
消化器が不調の極みにあったのでしょう、出るべきものがなかなか出ず、消化されるべきものもなかなか消化されず、夜には歩行中に、胃の内容物をぶちまけそうになりました。
コーヒーしか入ってなかったと思うのですがw
今朝まで、時折腹部を襲う差し込むような痛みに耐え、今朝になって、やっと腸内に溜まっていたものを排出できました。
急激に空腹を覚えたので、あり合わせで暖かいものを作り、少々すする。
体は疲弊し、休息を求めています。
しかし、それでもパソコンを起ち上げ、こうして文章を打っている。
何でですかねぇ、書かないではいられないのです。
まだ頭の中で形になって見えてもいないのに、何かを生み出したがってるような感じ。
一年前のような病的な感じはないので、大丈夫でしょう。
また、この欲求に応えてやらなければ、私は素直に休もうとしないでしょう。
なので、仕方がないなぁと布団から抜け出し、パソコンに向かっています。
前回までの内容を受けて、ここで一旦、まとめ的な事を書いておきたいと思います。
ダイアローグの#03から#06に書いた内容は、特別なことでもなんでもありません。
ちょっと天文学や宇宙の歴史、銀河系や太陽系生成の歴史、私たち地球の歴史を読みあされば、誰にでも得られる情報です。
色々とリンクも貼りましたから、リンクを辿って読んでいただければ、もっと色んな発見と驚きがあるでしょう。
私はこの手の話が大好きなので、苦もなく読み込むことができますが、全く興味なしという人もおられるでしょうし、苦手とする方もおられるでしょう。
かなりかみ砕き、要点だけをまとめて書いたつもりなのですが、それでも「読みづらい」、「分かりづらい」、「そもそも興味を抱けない」(そういう人は、コレ、読んでませんよねw)という人もおられるでしょう。
しかし、一読していただければ、確かに私たち人類という種の存在は、既知の天文学で見れば、非常の希有な存在なんだなと分かっていただけるのではと思います。
ってか、そうなることを期待して書きました。
そうなんです。
私たちは、自分の病状の改善に比較的無自覚であった私のように、自分のことは見えない。
なかなか分からない。
しかし、敢えて自分の視点を地球の外、例えば太陽系の歴史とか、銀河系の歴史とかにおいてやると、途端に私たち人類という種が存在している環境が、天文学的に奇跡的で希有なものなのだと、客観的に捉えられると思うのです。
現代は、日に日にあらゆる技術が秒進分歩の度合いを強めています。
日々、新たな知見が飛び込んでくる時代です。
以前にも増して、人類という種が置かれている環境が、天文学的に奇跡的で希有なものなのだ理解しやすくなっていると思うのです。
そうした理解を背景に考察をすすめれば、人間はすべからく尊い存在だという認識に立ててもおかしくないだろうと、私は訝しく思うのです。
(なぜ訝しく思うのかと言えば、そうではない現実があまりに多いからです)
同時に、この地球上に存在するあらゆる種もまた、すべからく尊い存在であるし、それらの存在が私たち人類という種の存在を支えてくれているという事実を、たやすく了解することができるだろうと思うのです。
しかし現実には、例えば環境問題への取り組みに対する全人類的なコンセンサスが形成されつつあるという報道に接することはありません。
スキャンダルめいた報道や、陰謀めいた話題には事欠かないのにね。
例えば、そうした天文学的に奇跡的で希有な環境に依って立っている人類という種が、互いに疑い合い、憎しみ合い、殺し合うという現実に、なかなか有効な対処をできないでいます。
逆に、ますます混迷の度を深めていると言っていいでしょう。
なぜこんなことになってしまうのか。
私たちは、この現実に対処できないのか。
もしそれができないというのならば、私たち人類という種は、モノを知る才能はあっても、己を知る能力に欠ける存在だということなのでしょうか。
私は一人の人間を見る時に、その背景に宇宙を見ます。
先のエントリーから、私の後輩君がたびたび登場していますが、彼を例に捉えるならば、彼のことを考える度に、なぜ彼は生まれてきたのか、なぜ人として生まれてきながらも、こんな問題に振り回されなければならないのか、そもそも彼の人生ってなんなんだと、私の脳細胞は考え続けるのです。
実に無駄なことを考えているようではありますが、私にはこの思考形態は不可避であり、通常の思考様式なのです。
ってか、最近、ますますそのようなありように、思考様式が遷移しつつあります。
新超星に触れたエントリーで、恒星の一生の中、その中でも特に激しい活動を示す、一般的に終末期と呼ばれる時期に、恒星内部で幾多の元素が生成されると書きました。
私たち地球も、私たち人類という種も、その構成元素は恒星によってもたらされています。
この宇宙の組成には、ダークマターとか、訳の分からない要素もまだまだありますが、ここでは一旦、考察の枠外に置いて考えるならば、私たちの存在は、実に宇宙なのです。
物質的には、宇宙そのものです。
私たちの存在は宇宙の賜、と言ってもいいでしょうか。
ちょっと飛躍して、結論めいたことを書いちゃいますが…
宇宙のあらゆる物質は、宇宙の理(ことわり)に則って存在しているのでありますから、その物質に依っている私たち一人一人は、宇宙そのものと言ってもいいのではないかと、私は考えるのです。
そして、先に私たちが存在するこの環境が、宇宙的に奇跡的で希有だと書きましたが、奇跡とか偶然とか、そんなものはありはしないので(そこを認めてしまったら、全ては崩壊します)、私たちが依って立っているこの地球という環境もまた、この宇宙ではどれほど天文学的に奇跡的で希有な環境とは言え、それは宇宙の理(ことわり)に則ったものであり、そのような意味では宇宙なのです。
私たちが、宇宙を「深遠なる宇宙」と捉えるならば、一個の人間もまた「深遠なる宇宙」であるはずなのです。
私たちが、地球を「母なる地球」と呼ぶならば、この宇宙もまた「母なる宇宙」、または「父なる宇宙」とも表現し得ると思うのです。
そのほとんどの領域で、生命が存在できないと思われる、この宇宙ではありますが、事実として我々は地球に存在している。
それはどれほど天文学的に奇跡的で希有な環境であろうとも、地球は存在し、それを客観的に認識できる私たちが存在しているという事実は、そうしたありようが宇宙の理(ことわり)であるからこそだと、私は考えます。
もの凄く回りくどい言い方をしていますが、そのような思想背景から、私は一人の後輩君の苦しむ姿を見る時、そこに宇宙を見るんです。
そうすることで、目の前の厳しい現実に、私が振り回されなくて済む。
彼は宇宙の理(ことわり)の上から見る時、このような意味があるのだろうと、私は見る。
だから、彼の泣き言に、私は一々つきあわない。
彼の一挙手一投足に、彼の真意を見ようとします。
彼でもさえも知らない真意を探ろうとするのです。
そして彼は、私の一言一言に納得せざる得ない。
私の言葉は、彼の発想からすれば明後日の方向から飛んできます。
彼はその言葉に、納得せざる得ないものを感じるからでしょう。
一例として私の場合を挙げました。
全ての人が、私のような思考様式でなければならない、なんてことはあるわけないと思ってます。
だから、ほんの一例として。
そのような思索と行動を重ねている私には、少なからず希望している未来があります。
それは、これからの人たちは、上に何度もしつこく書いたような、私たちが依って立っている環境が天文学的に奇跡的で希有なものであることを、しっかりと学習できる環境をもたらせてあげるべきじゃないかと、私は考えるのです。
これはまだまだ先で書こうと思っていることですが、例えば人権は、人類の歴史の中で編み出された思想であり、社会的な合意です。
私たちはたまたま、日本という、今でこそ平和な国に生まれ、育ちましたから「人権」という言葉も概念も、学校で教わることができました。
そうした教育を受ける機会があったればこそ、個々の人権は守られるべきものだというコンセンサスが、日本社会にはある。
しかし、そうした教育の機会がなければ、どうなるのでしょう?
現実に、そうした国や地域は多い。
そうした「人権」という言葉を知らずに育つ国や地域の方が多いと言っていい現実が、私たちの地球にはあります。
でもです、教育の機会が保証されている日本にあっても、今日、ますます一個の人命が軽視されつつある傾向にあります。
個人の尊厳が、たやすく踏みにじられる不条理な現実があります。
私も、そうした目に遭ってきた当事者であり、同時に、そうした現場を多数見てきた観察者でもあります。
なぜだ!
なせこんな非道が許されるのだ!
そうした想いを、私はずっと胸の奥深くにたぎらせながら、生きてきました。
そして、そのような問題意識が回答を求める一つの糸口が、私にとっては宇宙なのです。
人は、いや、そもそも生物は、自分を客観的に観察する能力に長けているとは言いがたい。
私が自分の病状回復を、なかなか自覚できないようにね。
同じことは国レベルでも言えるかも知れないし、人類レベル、地球レベルでも言えるかも知れない。
だからこそ、私たちが依って立つこの環境の大元への理解と洞察が、自己を客観的に観察する大きな助けになるのではないのか。
その理解の対象を、宇宙そのものに広げてみてはどうだろうか。
そう考えて、ここ数回のエントリーを書いています。
しかし、そうした客観的な状況証拠だけから、人類という種は生命進化の頂点と結論づけるのは、拙速な気がします。
同じことは、個々人に於ける尊厳性にも言えると感じています。
こうして私が文字を打っている間にも、科学技術は長足の進歩を遂げています。
技術的な革新に次ぐ革新で、この十年だけでも、どれほど私たちの生活様式は変化したでしょうか。
便利になりました。
もの凄く便利になりました。
同時に、社会には混迷の闇がますます深まっているように感じます。
不安と苦しみの叫びに、満ちてきているように感じます。
科学技術の進歩は、この宇宙の謎を次第に明らかにし、私たち人類という種がいかに希有な存在であるかを、客観的に知らしめています。
そして私たちの生活を便利にすると同時に、反面においては、未経験の問題にも直面させているように思えてなりません。
それはまるで、宇宙の謎を解き明かすほどに、ダークマターやダークエネルギーを存在に頭を悩ませる現実と、符合するかのようです。
なぜこのようなことになるのでしょうか。
私の疑いと思索は尽きません。