人類は生命進化の頂点にある。
生命の進化が語られる時、よく言われるフレーズだ。
でも、本当にそうなのか?
本当に私たち人類は、人間という存在は、生命進化の頂点なのか?
55年という年月を生き、心踊ること、憤ること、様々な出来事や情報、人に接してきた。
その経験を通して考えた時、人間の存在を「生命進化の頂点」と考えることに、私はものすごい矛盾や抵抗を感じる。
日々の生活の中で、私はいまだに「なぜ人間は存在するのか」という命題に、とりつかれたままなんだ。
これだけ高次元に発達した脳を持ち、豊かな感情や、森羅万象に美を感じ取る感性、人を幸せにもする表現力をも持ちながら、反面において、他の生命の種では考えられない「同種を殺戮する」とか「同種を利用する」という、人間に特異な側面を、人類という種だけは見せる。
自らの利に叶うならば、他種の絶滅さえ厭わない。
自らがよって立つ大地が汚染されようと、知らぬがふり。
そのような、他種には見られない、人道的な見地から言えば「非人道的」と呼ばれるような一面を、私たち人類という種は見せる。
その振る舞いはまるで、生命の進化を否定しているかのようにも思える。
そんな、自らのみならず、全生命の生存さえ危うくするかのようなネガティブな側面を、自らの内側に見るにつけ、私は「なぜ人間は存在するのか」という問いに、ますます惹きつけられる。
否、惹きつけられると表現力するよりは、その答なくしては、人として胸を張って生きられぬと言った方が適切か。
私の中の感情とか知識欲とか、そうした内在するあらゆるモノの、そのもっと奥深くから、それを知りたい、知って表現したいという欲求が突き上げてくる。
私が色んな分野にわたって知識を深めようとするのは、そうした欲求を満たしたいがためなのだろうと思う。
なぁ、翔。
お前はどう考える?
それでもやはり、人類は「生命進化の頂点」と呼ばれるべき存在なんだと、私は思う。
単純に考えて、生命維持機能だけ考えれば、人よりも優れた機能を有する種は、実はたくさんあることに気づく。
例えば…
人は、魚のように自由自在に水中を泳げない。
水中においては、明らかに魚の方が、機能的に優れている。
人は鳥のように、自由自在に空を飛べない。
空を飛ぶという機能においては、明らかに鳥の方が優れている。
同じように、熱水噴出孔や地底奥深くの高温高圧で酸素さえ存在しない世界では、私たちは一瞬たりとも生存できない。
しかし現実には、生命維持の為の代謝機能に、私たちのような酸素や炭素ではなく、窒素や水素などを用いている生命も、この地球上には存在する。
その世界では、明らかに人類よりも彼らの方が、その環境に適応している。
非常に単純な構造の種なのだが、人間が「極限環境」と呼ぶその世界では、明らかに私たちよりも、より単純な構造しか持たない彼らの方が機能的に優れている。
当たり前の話だが、それぞれの生命の種は、それぞれが生存する環境においては、その環境に人間以上に適応し、その意味では私たちよりも優れている。
また、人間の生存できる条件を知れば知るほど、人類という種は、実は生命の種としてはとても脆弱な存在なのだと分かる。
そもそも、四季の移り変わり程度の気候変動にすら、自らの身体機能だけでは対応できず、冬になったら衣服を重ね着しなければならない。
そんな脆弱な体温調整機能しか、私たちは持たないのだ。
その他にも、ここでその条件を書き連ねることは、私の見識が浅い事を露呈させるだけなので書かないが、本当に知れば知るほど、よくもまぁこれだけ人類にとって都合の良い環境が、この地球上に現れたものよと、感嘆することしきりなのだ。
それは、地球上の環境において言えるのはもちろん、地球を取り巻く天文学的な環境においても言えるんだ。
知れば知るほどに、びっくりする。
しかもそれは、実に絶妙なバランスの上に成立していて、その環境が成立していることこそが奇跡的なのだ。
そのように考えると、私たちは人類という種は、そうした奇跡的な環境の助力なしには、一時たりとも存在できない、脆弱極まりない種なのだ、とも思えてくる。
逆説的ではあるが、そうした脆弱極まりない私たち人類という種でさえ生存できる環境であるからこそ、地球はこれ程までに生命豊かな惑星なのだとも言える。
脆弱極まりない存在である、人類という種ではあるが、かく考えると、私たち人類という種は生命繁茂の象徴と言えまいか。
そういう観点からすれば、やはり私たちは「生命進化の頂点」と呼ばれるべき存在なのではないだろうか。
それにしては、と思う事象が山のようにある。
私自身も経験してきたし、目の前にも見てきた。
日々の報道は、人類という種こそが「絶滅危惧種」ではないのか?と疑わざるをえない光景を伝える。
もしくは、全ての生命の種の絶滅を危惧させる種、とでも言えようか。
生命進化は、破壊の神を産み出したのか。
この奇跡的な環境に、畏敬の念も恩も感じぬ、生命進化史上最強最低で、生命の存在すらをも否定する種を、生命の進化は産み出したのか。
生命繁茂の象徴たる、人類という種。
全生命の絶滅をも危惧させる、人類という種。
生命の進化や、生命進化の頂点たる私たち人類という種を考える程に、やはり私たちは「生命進化の頂点」であり、尚且つ、さらなる生命進化の可能性を開くキーを握っているように思われてならない。
否、そのように私は思いたい。
そう捉えることで、私は人類という種の存在に希望を見出せる。
私という個人にも、希望を見出せる。
そのように考え、行動できることこそが、「生命進化の頂点」と言われる所以ではなかろうか。
私は、そのことを証明する為の人生を歩みたい。
いきなり大上段に振りかぶったテーマで書いてみました。
日々、憂うること、憤慨すること、嬉しいこと、悲しいことなど、私の感情を揺り動かす事象が起こりますし、そうしたことに一喜一憂しながらの日々を送ってきました。
そうした一喜一憂に振り回され続けた人生とも言えるでしょうか。
でも、ただ振り回されているだけでは、真実は見えてこない。
その一喜一憂する感情を発する根元にこそ、私はアクセスしたい。
そして更には、その根元の、さらにその奥を、洞察の光で照らしてみたい。
それができる人間になるためには、このどうしようもない私自身のままで、私という人生を徹底して生き抜いてみるしかない。
苦しむときは、徹底して苦しむ。
喜ぶべきときは、徹底して喜ぶ。
涙するときは、徹底して涙する。
自分という人生に徹し抜いてみて、夢も希望も絶望も、全部舐め抜いてみてこそ見える地平が、そこにはある。
そう信じて、生きてきた。
そこで知り得たこと、これからまだまだ探求したいことを書き連ねようと思った時、一番自分の心を捉えて離さぬ命題を、一番最初に書かないわけにはいかなかった。
思索の海は、存分に泳いだ。
今こそ表出の堯照を、心中に昇らせたい。
無為な思考の遊戯ではなく、簡潔にして十分な表現を試みたかった。
何とかかんとか、形になったかな。