先日、ご近所のご婦人二名が私の部屋を訪れた。お二人とも75をを越えてるから、初老のご婦人方かなw みかんやタイ焼きをいただいたw
こうやって時々、溜まりに溜まった鬱憤を、私に吐き出してくださる。自分の息子ぐらいの若造に向かって。何にしても、頼りにされると言うことは、ありがたいことだ。そこに、私の存在理由を認めてくださっているのだから。
そうした年代の方々には、私ぐらいから下の年代の連中がやらかすことに、訳が分からなくなることが多いようだ。そうだろうなぁ~
色々とお話をうかがっていて、一点、「この方達の年代と私以下の年代では、こういうところに、大きな違いがあるんだなぁ」と思い至るところがあった。
私の親世代、だいたい昭和十年代から二十年代生まれの人には、生きることに必死だった時代がある。自分がそうでなくても、身近にそうした人がゴロゴロいた。多くの人が、望むと望まざるとにかかわらず、苦労、苦労の生活を強いられた。それが普通だった。そうした中で強く逞しく生き抜くためには、心を許せる仲間と共に汗をかき、涙を流し、共に笑う事が必要不可欠だった。そうした共同体の中での切磋琢磨が、人をさらに強くした。人生を豊かにした。
ひるがえって現在、そうした彼女たちが嘆くのは、個の結びつきの希薄さだ。当事者が、個の結びつきが希薄である事に気づかない。自分が孤独である事にさえも気づかない。例え気づいても、どのように対処してよいのか分からない。そうした人が多すぎる。そうした人たちの中で、一人で泣いている人もたくさんいる。そうした人たちと、また、そうした問題と、どのようにかかわっていけばいいのか、私たちには分からない。なぜなの?どうしてなの?ホワイ、ジャパニーズピーポー?
とまぁ、彼女たちの話はこういうことだったのだ。本当はここまで理路整然としてないし、実名も混じったトークで、もっと生々しいものだったけどさw
私は申し上げた。
私から下の年代は、かわいそうなんです。自ら望んで「苦労」を選択しなければ、苦労しなくても済む。そしてほとんどの人が、「苦しまない」という選択する。だから「苦労」する機会がない。チャンと「苦しむ」という経験を積めない。(そういう意味で現代は、苦労は与えられるものから、望むものになったのかもね)だから、目の前の人が苦しんでいても、苦しんでいることが分からない。例え苦しんでいることが分かっても、今度はその苦しみに寄り添えない。例え寄り添おうとしても、今度はどうやってその苦しみから解放してあげればいいのかが分からない。人は、自分が経験したことのない事には、対処できないんです。
また、技術の進歩が、新しい問題を生みました。
環境が整備され、法が整備され、誰もが明日の命を心配しなくてもすむ社会になりました。
色んな技術も発達し、居ながらにしてあらゆる情報にアクセスし、遠方にいる友人・知人とも連絡を取り合える。もの凄く便利な時代になりました。そうした技術を「己が利の追求」、つまり利己的な欲求を満たすために、存分に利用できる時代になりました。しかし、ほとんどの人が、その技術を、利他的目的に利用しようとはしない。いや、そもそも「利他的に生きる」という発想自体がない(せいぜい『イイネ』ぐらいだ)。その上、FacebookとかTwitterとか、自分の外見を簡単に取り繕える道具は増えました。しかし皮肉なことに、それが個の結びつきを弱めているのが現実です。技術だけが進歩し、人はその利便性を、己の欲求充足のためだけに夢中になる。技術は進歩したけども、その技術を利用する私たちの「人間性」を高める技術には疎いままなのです。そこに最大の不幸があります。私たちはやっとその必要性、重要性に、気づき始めたところです。その萌芽が世界の至る所で現れているのは、皆さんご存じの通りです。
その「人間性」を高める上で、最も基本になるのは、苦しむべき時にチャンと苦しむ事です。
昔は名実ともに、一人だけでは決して生きてはいけなかった。他者とのかかわりの中に、自分の活路を見いだしていく以外になかった。利己を考えるならば、利他でなければならない。どんなに自分が苦しくても、苦しければ苦しいほど、人に尽くさなければならなかった。そうした生き方が、当たり前だったんです。それが今はないのです。
とまぁ、舌っ足らずなんだけど、こんな話をした。饒舌な女性二人が相手だから、話は堂々めぐりをする。その堂々めぐりの隙間にねじ込むように、私も話はしたけども... 問題の原因を知りたいのが半分、溜まった鬱積を吐き出したいのが半分、ってとこでしょうかねぇw
私たちの社会の発展は、とても乱暴な括りだけども、「効率化」の上に成り立っている。そして今や、国民のほとんどが、ネットに接続されている時代になった。効率化も、ここに極まれり、だ。
そしてさらに暴論を吐くけども、そうした歴史は私たちに、効率的存在である事を求めてきた。技術の発展は人の幸福に資すると説きながら、人を手段と化してきたんだ。
効率的であればいいだけの人間には、感情はいらない。利他的でなくてもいい。かえって利己的である方が都合いい。だから個は分断されている方が都合いい。工具箱の中のトンカチと同じw
ただただ効率的であればいい人間は、愚昧なままの方がいい。頭を叩かれて、一々文句を言う釘なんて、使いづらいからねw
自分で問題を探り、自分で考え、自分で行動を起こすような屹立した人間は、不必要。そんなヤツは、高度に効率化した社会では、社会悪でさえある。目覚めた人格は、周囲をも目覚めさせるからだ。私は手段であってはならない。目的でなければならないと。
でもだ、いつしか時代は「効率化」という詭弁だけでは、通らなくなってしまった。誰もそれじゃ納得できなくなった。そんな局面を迎えている(あの夜行バスの大事故は、その象徴的な事件じゃないか)しかし、それに代わる理屈がない。混迷を深める現代の処方箋を、誰も明かせないでいるように見えるのは、きっと上手い「詭弁」を、誰も思いつかないからだろう。
あらゆる技術の発達は、私たちの生活を便利なものにしたかもしれないけど、同時に、私たちがどれほど愚かなままであるのかも、白日の下にさらしてしまった。
愚かなままであってはならない。愚かでは不幸になる。
賢明な存在でありたい。賢明な存在になるための第一歩。それが、苦しむべき時にチャンと苦しむことなんじゃないかと思ってる。
長い長い独り言でしたw