私の周りには、どうも一風変わった人が集まっているようだ。
今日は、いや、正確には昨日だが、精神科医から左脳機能不全だと診断されている友人が、私の部屋に遊びに来てくれた。
知り合って10年以上は経つ友人なのだが、ここ数年は連絡を取り合うことも、ましてや会うこともなかった。
それが今年、友人の方から突然Facebookで友人申請あって、久方ぶりに連絡を取り合うようになり、夏には近所の喫茶店で、今日は私の部屋で一緒にコーヒーを飲むことになった。
友人は苦しんでいた。
その苦しみを、言葉にして周囲に伝えられないことに。
自分が周囲から理解されないことに。
たとえそれが家族であっても。
そして、ここが大切なポイントだが、そうしたことは全て、自分が悪いのだと思い込んでいる。
言葉を交わし、表情や仕草を観察し、友人が心底、自分の苦しみと向き合って生きてきた事を、私は知った。
すごい奴だなぁと、素直に思った。
こういう奴は、信頼に値する。
こういう奴こそ、チャンと生きて、幸せの実感をいつか必ず得てもらいたい。
私は心底、そう願った。
願いは言葉となり、私の口からほとばしり出た。
お前は悪くない。
悪くないどころか、お前は偉い。
チャンと自分の苦しみと向き合い続けたお前は、本当に偉い。
お前は逃げなかった。
人のせいにもしなかった。
その姿勢を貫いたことは、賞賛に値する、と。
友人の目に、度々、涙が光った。
自分の感情さえ、どう表出していいのか分からないぐらい、友人の精神はこってんぱんにやられているのに、その目に、自然と涙がたまった。
その目は、私の口から、さらに自分の本当の姿を聞きたい、もっと知りたいと訴えているようだった。
私は友人の目を真っ直ぐに見つめながら、言葉を紡ぎ続けた。
ありがとう。
少し元気が出た。
もう少し、頑張ってみる。
たぶん、友人は頑張りながら、いろいろ考えるだろう。
私の言葉も思い出しながら、自分の来し方を振り返ることもするだろう。
耳から入ったこと、目から入ったこと、自分で考えたこと、色んなことが、実は記憶からこぼれ落ちていて、若しくはこぼれ落ちないまでも、情報の関連づけが頭の中でできないでいて、何を考えるべきなのかも分からなくなったり、今日、私が話したことも記憶に残らなかったりして、また苦しむだろう。
いい。
それでもいい。
そんな自分でも、私ならチャンと正しく評価してくれるんだと、ココに自分の安全な場所があるんだと、そう分かって帰ってくれている筈だ。
だから、いい。
その認識さえ持ってくれていれば、友人は安全だ。
友人は、私に問うてきた。
お前は、この街が好きか?と。
その問いを発した目には、大きな憂いが映っていた。
かわいそうに。
よほど、この街でいじめられてきたのだろう。
よく分かる。
私は素直に、私はこの街が嫌いだと、答えた。
一度は、この街を捨てて、外に出た、とも語った。
でも結局、また帰ってこざる得なくなったと。
今の私の考えは、昔とは違う。
相変わらず嫌いな街だけど、だからこそ、大好きと言える街に変えたい。
その為に、この街にいじめられ、苦しんできた奴の、一番の理解者でありたい。
私は、やられっ放しは嫌だ。
利用されっ放しでいて、たまるものか!
今日の語らいを、友人がどう捉え、どう考えるか。
それは、友人次第だ。
私はただ、どこまでも友人であり続けるだけだ。
一番の理解者であり続けるだけだ。
言葉にならぬ想いを、相手の心の底から汲み上げる力を、私は持っている。
その能力を存分に発揮し抜くだけだ。
私は、私らしくあればいい。
それがきっと、友人にとって、一番の救いになる筈なのだ。