今朝は六時に目が覚めた。
普通に起床できて、普通に朝食をとれた。
ビックリした!
一時間ほどで睡魔が襲ってきて、また二時間寝たかな。
再度、九時に起きて、病院に行ってきた。
今までならば、コレぐらいの睡眠時間だと、日中、眠くてしかたがないものなのだが、今日はさほど眠くない。
朝の目覚めも、割とスッキリしていたし。
ここ数年、なかった事だ。
今日のように、昨日から天候が崩れているにもかかわらず、頭の調子が良いというのも、病状が順調に回復してきているということなのだろうか。
実に喜ばしい!
最初にウィキペディアの「解離性同一性障害」に紹介されているスピーゲル (Spiegel,D.) の言葉を紹介したい。
この解離性障害に不可欠な精神機能障害は広く誤解されている。これはアイデンティティ、記憶、意識の統合に関するさまざまな見地の統合の失敗である。問題は複数の人格をもつということではなく、ひとつの人格すら持てないということなのだ。
このブログで、長らく裕子について、触れてこなかった。
この半年間で色々あったのだが、3ヶ月前からは、数度のメール以外、直接の連絡も取ってはいない。
そして、私から送った最後のメールで、私は暫くの間、彼女の生活に一切干渉しないと宣言した。
この3ヶ月間、私は色々と試みもし、その結果から思索も深めた。
そして、裕子は現在、裕子という一個の人格を形成しつつある段階なのだと、私は判断した。
彼女の肉体的な年齢は40代だが、一般的に見られる人格の形成段階に照らして考えれば、裕子それは小学校高学年、もしくは中学生の段階ではなかろうか。
私の目には、そのように映る。
もちろん、今まで生きてきた43年間の経験も、彼女の中にある。
そして、その経験の多様さ、壮絶さは、一般的な43歳を凌駕していると思う。
しかし、その経験のほとんどは、裕子を形成する各人格に本来帰属しているもので、意識や記憶の融合を遂げつつあるというものの、裕子個人の生きる智慧にまでは昇華されていないのが現実だと思うのだ。
つまり、一人の人間としては、はなはだ未成熟なのだ。
そうした人格形成というか、今までの経験を今後の人生のための智慧に昇華させる為には、裕子自身が社会の人間関係の中でさらに揉まれ続ける必要があると、私は考えている。
またそうした揉まれ続ける過程から、彼女は新たに多くを学び取らねばならない。
それは、裕子自身も同意するところだと思う。
今現在の裕子を言えば、私の目に映る限りでは、まだまだ自分の中の多様な自分に振り回され、制御できていない状態に見える。
彼女を振り回すものは、具体的には彼女の中の多様な欲求であったり、感情であったりするのだが、そうしたことは、いつかは必ず経なければならない避けがたいプロセスなのだと、私は思っている。
裕子は、身体こそ43歳であるが、先に書いたように、精神的な成熟度という面では、やっと思春期に差し掛かったぐらいなのだから、当然とも言える。
私にしても、思春期から青年期にかけては、自分の欲求や感情に振り回されていたものだった。
ただ裕子のそれは、私の経験とは比較にならないぐらい壮絶であると思う。
欲求や感情の出所である各代替人格が、それなりに確立された人格として振る舞ってきた歴史を、それぞれに持っているからだ。
それに比べて、彼ら彼女らの裕子は、一個の人格としてはまだまだヨチヨチ歩きを脱したレベル。
その様な裕子が、自分の内面を御していくのは、並大抵のことではないはずだと思う。
昨年の夏、突然、自分の中の各人格と意識と記憶の融合を強いられた裕子。
それはそれでとても奇跡的な出来事であったのだが、その事によって、それまでの苦しみとは全く異質な苦しみに、裕子は直面することになった。
それまでの裕子は、自分の中の代替人格たちについての情報は、私から得ることがほとんどだった。
私は裕子を含めた全員から信頼され、友好を深めていたので、そうした機能を果たす絶好のポジションに私はいたわけだ。
しかし、今は違う。
裕子と彼ら彼女らの橋渡しをするという機能は、不必要となった。
私という精神的にも肉体的にも異質な存在が、彼女たちの間に介在する必要は、全くなくなった。
しかし、私という人間は、裕子の有り様をそのまんま理解できる、唯一の存在ではあるのだろうと思う。
そうした意味では、私という人間は相変わらず、自分を理解してくれる拠り所として、裕子には心強い存在であるのかもしれない。
しかし、今後の裕子の人格形成と言うか、人格熟成のプロセスに於いては、裕子の側に私が存在し続ける事は、彼女の成長の阻害要因にしかならないように、私には思える。
また同じような考えは、裕子の中にもあるのではと、私は推慮している。
世間一般的な言い方をすれば、裕子にやっと、親離れの時が来たようなものだと考えている。
私は裕子の親ではないが、裕子の真実を知っているという意味では、彼女の実の親をも超えていると思っている。
だからこそ、私は裕子を突き放さなければならないと考える。
それが裕子のためであり、同時に、私のためでもある。
さて、裕子は今後、相当な期間、一人で足掻くことになる。
彼女から助言を求められれば、私はそれに応えることはやぶさかでは無いが、さて、彼女の方から私に助言や意見を求めてくることがあるだろうか。
また、人格を熟成させ、一個の屹立した人格に成長するまで、どれ程の時間が必要になるだろうか。
数年、もしくは十年を超えるかもしれない。
ぜひ立派に成長した裕子に会いたいものだし、私もそれまでにはもっともっと成長していたい。
社会に貢献できる、屹立した人格を確立したい。
さて、最初のスピーゲルの言葉を思い返してみよう。
一つの人格さえもてない、という解離性同一性障害の限界を、裕子は破りつつある。
これはとんでもなく凄いことだ。
しかし、その挑戦には、どれ程の苦難が待ち構えているだろうか。
とんでもなく凄いことだけに、とんでもなく凄い苦難が待ち受けているに違いない。
そして当然のことだが、彼女の有り様も、苦しみも、誰も理解はしてくれないであろう。
どんな苦難よりも、その孤独が、裕子を苦しめるだろう。
しかし、それが一人で生きるということだ。
ぜひ、その強さを身につけて欲しい。
それは、私にも言える事だが。
そうした孤独感をも突き抜けて、ぜひ屹立した人格を勝ち得てほしいと願う。
裕子になって欲しいと思う。
自分の欲求のおもむくままに生きる臆病な人生ではなくして、人の恩を知り、その恩に報いる、勇気ある人生をおくってもらいたいと願う。
私は今後も裕子の一番の支援者、一番の理解者であり続ける。
しかし、一番の理解者であるからこそ、こと彼女の人格の熟成という作業にまでには、私は干渉することはできない。
それは、誰でもそうなのだが、彼女でなければ成せない作業だし、一人でなさなければならない作業だからだ。