どこまで頑張れば、私は楽になるのだろう。
どこまで頑張れば、私の祈りは叶うのだろう。
これだけ頑張ったんだから、私は幸せになるはずだ。
これだけ頑張ったんだから、私の未来は明るいはずだ。
ずっと、そう思ってきた。
でも、違う。
絶対、違うな。
こういう考え方に拘泥している限り、私は本領を発揮できない。
考え方がどこか他力本願だもん。
頑張った見返りを何かに求めるなんて、自分に信を置いていない証拠だ。
それは、突き詰めて言えば、自己否定でしかない。
だから、この考え方は、誤りだ。
今、むしろ、私はこう考える。
ここまで頑張れることが、既に凄い。
ここまで頑張れる自分である事、ここまで頑張れる縁に恵まれた事が、本当に有難いのだ。
これらは全て、私にとっての必然だ。
そして、これらを必然足らしめるモノが、私の中にはある。
その事を、私はもっともっと自覚したい。
その事を、もっともっと私の誇りとしたい。
そうした誇り高い人生を歩んでいるんだという事実に、私は目覚めたい。
そう考えるならば、私は私自身の可能性に、絶対の信をおくべきなのだ。
それをせぬ弱々しさ、もっと言えば臆病こそ、私の苦しみの根源なのであろう。
今の労苦は、決して今生の為ではない。
もっともっと遥か遠くの未来を生き抜くための土台を、私の中に築いているんだ。
きっと同じ方程式で、私は遠き過去から、今生で頑張り抜く為の土台を、営々と築いてきたのだ。
だから、私は頑張り抜けて当然なのだ。
今生に於けるあらゆる努力と、得られる結果は、そうした過去の累積の上に現れた、必然の結果なのだ。
だから、今生の苦しみに、涙するのは止めよう。
私は遠き過去に於いて、既に今生の苦しみを脱却しているのだから。
今生に於いては、苦しみの人生を演じる事で、遠き過去に於いて、如何に壮大な土台を自らの内面に築き上げてきたのかを、私は証明して見せているに過ぎない。
そして、今生に於ける苦しみの人生を快活に生き抜く事で、さらなる遠き未来の人生を更に快活に演じ切る土台を、私は同時に築いている最中でもある。
その為の宇宙であるし、その為の私である。
そう信ずるならば、何も憂える必要はない。
確かに私は、その方程式通りに生きている。
つまり、これで良いのだ。
万事OKなのだ。
私の勘違いでなければ、私の中に巣食っていた何かが、少しずつ薄らいできている。
憑き物が落ちつつある、とでも言えるだろうか。
頭の中がスゥ~っとする。
願わくば、ただの思い込みではありませんように。