私は幼い頃から、母親からの依存を背負って生きてきた期間があった。
私の存在を根底から否定するという究極的なディスりに、幼い頃はあいつづけてきた。

母親には虐待とか育児放棄なんていう意識は微塵もなくて、単純に躾だと思っていた時もあっただろう。
また時には、亭主のあんまりな行動に、絶望感に陥り、パニックを起こし、持って行き場のない恐怖と怒りを、口汚ない言葉で私を罵倒することで吐き出したのだろう。
他にも違ったケースがあったかもしれないが、私の記憶にあるのは、この二つのケースだ。

そうした、とかく不安定になりやすい母親のもとで、幼い私は私なりに知恵をめぐらせ、必死に母親に取り入ろうとしていた。
自力で生きてはいけない子どもにとって、それは存在をかけた戦いだったはず。

そのために、私は懸命にいい子になり、母親の意思の先回りをしたりして、彼女の心を満足させる。
そして私は、母親の満足気な顔を見て、安心する。
そこには、明らかに歪な依存関係があった。
共依存と呼ばれる関係だ。


そうした母親との親子関係が、そのまま、私の中では人間関係の雛形になる。
子どもは人間関係の形成方法を、最初は親子関係から学ぶのだから、これも当然。

無償の愛の中で育っている奴らは、子ども同士における人間関係の形成にあって、盛大にワガママを言う。
当然だ。
ところがこちとらは、ワガママを言ってはならないというのが行動規範だし、相手の意のあるところを汲んで先回りをするというのも、私にとっては重要な行動規範だから、相手が私と同じ子どもであっても、その行動規範通りに行動する。
ワガママ放題な連中にとっては、私のような奴は、格好な利用対象となる。

おかげか、幼稚園時代には、ロクな記憶がないw

上に挙げたのはほんの一例だが、私はそのようにして、いつも人間関係を形成するにあたっては、共依存的なモノサシで人間関係を計っていた。

私にとっては、そうした経験には、功罪の両面がある。

功の面は、私の能力を限界を超えて伸ばすことができたこと。
そもそも、私の中に限界なんて定義はないんだけどw
自分の能力を超えていようが、母親に望まれた事は、必ず成し遂げなければならなかったからね。

罪の面の代表選手は、共依存関係に耽る嗜癖だ。
この底つきを、やっと感じることができて、今は本当にずいぶんと気分が楽になった。
不思議なものだ。

もう一つ挙げれば、一か八か、生き延びるか、さもなくば死ぬかっていう、両極端な発想方法。
これにも功罪の両面があるから、一概に悪いとは言えない。
が、一旦、負の側面が強くなると、自傷行為、自殺に走る。
思いっ切りがいいから、なおのこと始末に悪い。
それは逆も真なりで、この発想方法のおかげで、私はずいぶんと頑張れた。
今もこうして生き延びているという事実が、私の中では素直に、まだ生きていていいんだ、私にはこの世界に生存していいんだという理由と仕事があるんだという自覚に繋がる。
それが喜びにもなり、励みにもなる。
この正の面が強い状態を維持する事が、私には大切なのだ。


しかし、何事もバランスの上に成り立っているからだろう。
そうした状態の維持には、それなりのエネルギーが必要なのはもちろんだが、逆の負の面も、無意識下で蓄積し続けているので、こいつを上手く処理せねばならない。
だがだ、これは一人では処理し切れないのだ。
吐き出す相手、私の心情を汲んでくれる相手が必要なんだ。
困った!


しかし勘違いしないで欲しいのだが、この処理のために、私は今また、共依存の相手を求めているのではない。
今後も一切、ない!
より正確に記すと、確かにそうした負の側面を解放する相手を求めて、いつも共依存関係を築いてきたはずだった。
でもだ、共依存の対象を前にすると、私はいつもいい子でいる。
相手から望まれる姿でいる。
そうした姿でいる限り私は、上に書いたような負の側面は、決して表出できないのだ。
そう、私にとって共依存は、どこまでも毒でしかない。
(底つきを経た今だから、こんな事も素直に認識できる)
共依存という嗜癖は、過去においては、私の能力を存分に伸ばす事にも繋がったが、それは主治医に言わせれば、私の持って生まれた高い対応力があったから成し得た事で、今、この歳で、もうあんな無茶苦茶はしたくないし、できないというのが私の本音。

今の私に必要なのは、極々一般的な共存関係なのだろう。
依存ではなく、お互いを補い合える、支え合える関係。
私も相手も、それぞれに、らしくしていていい関係。
お互いに、全く何も無理をする必要のない関係。

まぁ、完全に無理が必要ない関係なんて、考えてみればあまりに理想すぎて、現実のところは、皆、何がしかの妥協点を見出しながら関係性を維持しているのが現実なのだろうと思うのだが。


とまれ、話を少し戻して、私には心の底に溜まりつつある負の側面を吐き出す相手が必要だ。
少しばかりなら吐き出せる相手もいるが、全面的に頼りとできる存在はいない。

でもだ、焦ってはいけない。
今までの経験で、こういう時ほど、私らしくい続ける事が大切なんだ。
慌てるな!
焦るな!
何処の誰かは分からないが、チャンと見る人は見ているものなのだから。
人生とは上手くできているもので、道さえ踏み外さなければ、出会うべき時、出会うべき人に、出会うべくして出会うものなのだ。


共依存という嗜癖の酔いから醒めて、時間が経つほどに、私にはそう思えてならない。