私には義理の母親が二人いた。
その二人の最期に、私はかかわることができた。
自分の実の母親の最期にさえかかわれなかった私がだ。
ありがたいことである。
一人目は、前妻の母親である。
母親と言っても、前妻は六人兄弟の末っ子で、一番上の姉とは20歳程も年が離れていたので、その母親の年齢は、私の祖母のそれに近かった。
前妻には無理を言って、私が33歳の時に東京を離れ、一緒に故郷に来てもらった。
しかし、土地の水に合わなかったのか、田舎暮らしに合わなかったのか、はたまた親父との不仲や色んな要因が重なったためか、三年ほどすると「年老いたお母さんと一緒に暮らしたい。私は東京に帰る!」と言われ、別居となった。
別居生活は三年に及んだが、その間、食う物も何もかも削って、毎月かなりの送金をしていた。
そんな事も功を奏したのだろうか。
前妻はお母さんの最期を立派に看取ることができた。
その後、程なくして離婚するのだが、これまた程なくして再婚。
また程なくして離婚させられ(色々あったんだ)、約一年半程して再入籍。(去年、また離婚した)
今回のエントリーで紹介したいのは、この妻のお母さんだ。
統合失調症と糖尿病を患っていたお母さん。
そこに認知症が加わって、自己管理がおぼつかなくなった。
通院には私が付き添っていたので、その大変さは傍目にもよく分かった。
だから、同居の為に家も建てた。
ま、このくだりは、過去のエントリーでも再々取り上げている。
認知症の家族をもつという事がどういうことか、これは経験した者でなければ分からない。
統合失調症の家族をもつという事がどういうことか、これも経験した者でなければ分からない。
アルコール依存症の家族をもつという事がどういうことか、これもまた経験した者でなければ絶対に分からない。
その上に、同居する家族三人が次々に末期ガンの宣告を受けるのだが、ま、そのくだりは散々過去のエントリーで取り上げているので、ここでは書かない。
かように私は、とても恵まれた家族に囲まれ、願っても叶わないような稀有な経験を積ませていただけた。
そのために自分の神経も病んでしまったのだが、病んだ甲斐があったというものだ。
朝から晩まで、そんな家族が起こすトラブルに巻き込まれる。
それが当時、私の日常だった。
しかし、母親に若くして死なれた私にとって、妻の母親の世話ができるということは、願ってもない幸運だった。
そんな幸運だったが、認知症と向き合う生活には、そんな綺麗事では絶対に済まない、厳しい、厳しい現実があった。
特にお母さんは、カロリー管理が欠かせない糖尿病も長らく患っていたので、なおさら厳しい現実が常にあった。
もちろん、そのカロリー管理も、私の大切な仕事だった。
中でもとりわけ苦しんだのは、毎日、夕方になると「苦しいから病院に連れて行け」と責められることだった。
普段はおとなしい、柔和な性格のお母さんだったが、「病院に連れて行け」と言ってくる時のお母さんは、本当に苦しそうにしていて、なおかつ、執拗だった。
でも、病院に連れて行く理由がない。
だって、本当は苦しくないんだもの。
いつも、私は言を左右に振って、お母さんの要求をやり過ごしていた。
すると、時には...
あんたは人でなしじゃなぁ!
と、普段の性格からは想像もつかないような暴言を吐かれることも度々だった。
(後になると、そんなやり取りをすっかり忘れている。何度「私はそんな酷いことは言わんよ!」と言われたことかw)
こんな事が、冗談抜きで毎日繰り返されるのだ。
私は仕事で忙しい時もあるし、どうしても私の気も立って、ついつい乱暴な言葉遣いになる事もあった。
そしていつしか、夕方が近くなると、私は家を空けるようになった。
とうとう、そんな日常からプチ逃避したわけだ。
そんな事でもしなければ、もっと早くに私の方が参っただろう。
そんなお母さんだが、私は心から感謝している。
まず、実の母親にできなかった親孝行をさせてもらえたことだ。
お母さんは、初めて会った時から、私の事をとても気に入ってくれたようだ。
「えぇ人じゃがぁ」と、よく言ってくれたっけ。
そんなお母さんの体をガンが蝕み、骨にも転移した時には、何度も背中をさすらせてもらった。
骨転移の痛みは、地獄の苦しみなのだそうだが、お母さんの骨転移の痛みは、さほど長続きしなかった。
痛めば、私がさするだけで、痛みが消えてくれた。
放射線治療の甲斐もあったのだろう、骨ガンの痛みを訴える期間は、本当に短く済んだ。
聞き及ぶところでは、そんな事は骨ガンでは稀なのだそうだ。
ガンも末期の中の末期となり、体力気力が削がれていく中、私はやはりお母さんの背中をさすっていた。
「もうええよ」と言われても、「気持ちいいでしょう?」と、さすり続けた。
あの時が、私の中では至福のひと時だった。
早くに母親を亡くした私が、お母さんの背中をさする事ができる。
これが喜びでなくて、なんであろう。
私は身も打ち震えるほど嬉しくて嬉しくて、しかたがなかったのだ。
第二に、親孝行の大切さ、親孝行をし抜くことの素晴らしさを、身をもって教わることができたことだ。
お母さんの病状がいよいよ深刻化し、かかりつけ医から「この数字て生きていること自体が奇跡です」と言われ続けたた最後の三ヶ月。
折しも、妻は勤めていた会社が倒産し、お母さんとの最期の日々を、自宅でずっと一緒に過ごすことができた。
その為の資金が、親父のこう頭がんのおかげで工面できたことは、先日のエントリーで書いた通りだ。(親父には感謝である)
また、かかりつけ医は、我が家の玄関から歩いて30秒の所に開院していた。
何かあれば、昼夜にかかわらず、直ぐに飛んできてくれた。
まるで、お母さんの最期を見守る為の環境のようだった。
私は、お母さんがこうなるまで、朝な夕なに、お母さんの最期が少しでも穏やかであるようにと、真剣に祈っていた。
その祈りが、ドンドン、具体的な形となって現れていくようだった。
忘れもしない、あれは2010年の11月18日深夜。
お母さんは、初めて危篤状態に陥った。
駆けつけてくれたかかりつけ医には「今夜が山です」と言われた。
緊迫したお母さんの居室。
お母さんは胸を大きく動かして、ゼェゼェと荒い息をたてていた。
それでも酸素が取り込めなくて、本当に苦しそうだった。
なのにだ!
それなのに、お母さんは私の姿を認めると、起こせるはずもない上半身を無理やり起こし、私に向かって合掌したんだ!
驚いた!
とても驚いた!
ありがとう!ありがとうな、◯◯さん!
これが、お母さんが私に向けて放ってくれた、最後の言葉となった。
その後、十日ばかり後、遠方に住む娘二人と実の弟との別れの挨拶を済ませ、お母さんは息をひきとった。
うららかな日中、実の娘である私の妻に添い寝をされながら、文字どおり眠るように息をひきとった。
妻の叫び声で、私は階下に降りた。
直ぐにかかりつけ医が駆け付けた。
その場で死亡が確認され、死亡診断書が書かれた。
お母さんの体は、まだ暖かかった。
実の母親では、無念が重なった。
何にも親孝行らしい事ができなかった。
お風呂で、一人で死なせてしまった。
加えて、司法解剖とか、訳のわからない出来事で、私の心はぐじゃぐじゃになった。
その無念さを、完璧に晴らすことができた。
妻のお母さんが、私の無念を完璧に晴らしてくれた。
こんな完璧な親孝行、私は聞いたことがない。
親孝行をし抜いた時の晴れ晴れしさ。
突き抜けるような喜び。
それを妻のお母さんは、完全な形で、私に教えてくれた。
私には三人の母親がいる。
実の母。
二人の義理の母。
生涯で三人もの母に仕えることができるなんて、こんな幸せ者はなかなかいないと思う。
私の親孝行は、まだまだ続く。