今日は比較的ゆっくりと寝れたように思う。
頭の芯から、疲れがスーっと抜けて行く感じがあった。
昨日のように、夢の中でせっつかれることもなく、お昼過ぎまで休めたのもありがたい。
時間は遅くなったが、作業所に顔を出してみる。
到着すると、ちょうど作業所スタッフが、ワードの操作方法が分からず、頭を抱えているところだった。
いいところに来た!
ここの作業所では、私はパソコンに精通している人間と認識されているw
しかし、私もワードの操作に精通している訳ではないんだが、基本的な操作は、触ればなんとか分かる。
なので、チョチョイのチョイとお手伝い。
作業は一切しないで、ワードの操作に頭をかかえるたびにキャーキャー叫ぶスタッフのサポートをしてたw
昨日は親父のことを書いたが、今日は母親のことを書きたい。
幼い頃、こっぴどい目にあわしてくれた母親だが、それでも私は母親が大好きだった。
どんなに酷い目にあっても、酷い母親だとは思えなかった。
逆に、親父との夫婦関係を見ていて、お母さんは可哀想だと思っていた。
そんな母親に、喜んでもらいたかった。
母親が喜べば、何でもよかった。
私はいつも母親の顔色を伺い、行動した。
(それがそのまま、私の行動規範となり、いつも人の顔色を伺う人間になった)
努めて良い子であろうとした。
幸い、私は勉強が大好きで、その上、成績も良かったようだ。
その事で、母親は人から褒められる。
それが母親を、ことの外喜ばせた。
なにせ、何事においても、人から褒められるなんてことのない家庭だったし。
そんな私に、母親はよく本を買い与えてくれた。
とても貧乏だった筈なのだが、ありがたいことに、本だけは惜しみなく買い与えてくれた。
小学四年生の時に、学研の原色大百科辞典を買ってくれた時には、嬉しくて嬉しくて、辞典であるにもかかわらず、1ページ目から舐めるように読んだ。
学校の予習の為に、使い倒した。
付属のレコードで、クラッシック音楽にも親しんだ。
世界的な絵画に親しんだのも、この時が最初。
私の素養の基礎は、この時に築かれたと言っても過言じゃない。
そんな母親たったが、私が25才の時に、あっけなく死んだ。
あまりに突然で、その連絡を受けた時に、思わず「またまた冗談を!」と言ってしまった程だ。
「こんな事を冗談で言えるか!」と言われて我に返り、妻と生後三ヶ月の娘を連れ、故郷に飛んで帰った。
母親は、親父が仕事に出ている間に風呂に入り、その入浴中になくなった。
帰宅した親父が119番に連絡をしたのだが、湯船から母親を引っ張り出したことで、少々話がややこしくなった。
不審死となり、事件性が疑われ、警察の介入となったのだ。
私が実家に帰り着いた時には、家に母親はいなかった。
司法解剖の為に、県庁所在地まで運ばれているという。
待つこと二日。
帰ってきた母親の亡がらは、腐敗臭とホルマリン臭にまみれていて、身内の私ですら困惑するようなありさまだった。
なぜ母親は、一人で死なねばならなかったのか?
なぜこのような姿で、最期を迎えねばならなかったのか?
社会に出て、娘も生まれて、やっと親孝行ができるかなと思い始めた矢先の大事件。
私の中では、母親の死は受け入れ難いものだった。
私の中では、母親は、つい先日まで死んでいなかった。
先週のことだろうか。
自分を見つめ、自分の越し方を振り返る中で、自然と母親への深い感謝の想いを抱いた。
母よ、よくぞ私をあの環境で産み落としてくれたと、私の両頬が涙で濡れた。
その時に、やっと私の中で、母親は亡くなった。
あんたらが大人になったら、私はお父さんと離婚する!
私が幼い頃、私と妹を前にして、母親はよく口にしていた。
その言葉どおり、妹も私も社会人となり、結婚もし、私には娘が生まれ、妹にも長女が生まれる寸前に、母親は亡くなった。
今思えば、宣言どおりの人生を歩んだのだと思う。
生前に一度だけ、母親が亡くなる年の春、一緒に伊豆を旅行した。
伊豆の七滝で、足元が危ないと思った私は、母親の手をとった。
晩年は精神疾患で苦しんだ母親だったが(おそらくうつ病だったのだろうと思う)、その行為がよほど嬉しかったらしく、その喜びを周囲に語って回っていたと、後になって聞いた。
母親からすれば、その一事で、全てが報われる想いがしたのかもしれない。
息子の私は、そうであって欲しいと願うばかりだ。
私の人生は、母親への恩返しである。
母親への報恩こそ、私の人生の基礎だ。
母親に喜んでもらう。
幼い時は、その目的のために、自分を縛り上げていた。
現在は、その目的が、私の発想と行動の大きな動機となり、天衣無縫な自由を与えてくれる。
私は自身の人生そのもので、母親への感謝を綴っている。