たぶん誰もがそうだと思うんですけど、自分のことが一番、見えないだと思うのです。
怒ったり、悲しんだり、怯えたり。
そうした主体者の自分がよく分かれば、いたずらに心を振るわせる必要が無くなるはず。
でもです、やっぱり自分が一番見えない。


そうした自分を眺めてみる、一番手近で、確実な方法は、人間関係の中に自分を置いてみることだと、私は思います。
人間関係の中に自分を置いて、自分の前にいる他者の姿に、自分の姿を認める。
他者の姿を、自分を映す鏡とする。
言葉で書くと、とても面倒くさそう。
でもやはり、これが一番の方法だと思うのです。


それでもです、自分への不信感があると、どうしても自分の実像が見えてこない。
不信感という歪んだレンズが、自分の実像を歪めて、自分の心に投影する。
この不信感、どうしたら拭えるのか?


幸いなことに、私には、この不信感を拭う方法があります。
その方法というか、その原点を持っていることに気づくのに、30年以上を要してしまいましたが。
そして、この自分への不信感を拭うというのは、一見すると、とても傲岸不遜な姿勢に見えるわけです。
自分でもそう感じるし、他者からならなおさら「どうしてそこまで強気でいられる?」と思われるわけです。
そこを、敢えて傲慢であれと自分に言い聞かせ、歪んだレンズを通した虚像を振り払い、これが私の実像なんだと覚悟を決める。
もう私には、これしかありません。



のっけから、話がとっても抽象的ですw



今日は、もう十年以上の付き合いになる友人と、六年ぶりに再会しました。
十年以上も付き合っていて、六年ぶりに会うとか、オカシイだろうというお話ですがw
しばらく前、たまたま私の存在をFacebookで見つけてくれて、時々、そいつの投稿にチャチャを入れるということをしておりました。


今日も、たまたまそのチャチャを入れたんですが、その折りに、ビックリするようなカミングアウトをされました。
世の中には色んな病気があるものですが、こんな病気、というか障害があるなんて、友人から聞くまでまったく想像すらしたことがありませんでした。
おそらく心的障害に属する病だと思うのですが(そしてたぶん先天的)、チャチャを入れ合う中で、その事実を知り、私の心の中では大いにうなずける部分があったんです。
あぁ、なるほど。
だから、あぁいった風だったのね、と。


時間あるなら、コーヒーでもしない?


私の方から声をかけ、近所の喫茶店で落ち合いました。
時間にして一時間。
友人の話を聞くと言うよりも、ほぼ、私が一方的に喋ってしまいました。
一見して、なんか放っておいてはいけないな、と思われたから。


友人は、この病のために、社会で働き始めてから、ずっと生きにくさを感じていたそうです。
さもありなん。
こんなん、誰も想像しないだろうし、できないし。
ましてや、その障害で生じる困惑、悩みを共有してくれる人なんて、いるわけない。
すでに結婚もし、子どももいるんですが、その伴侶でさえ理解できず、もうただただ諦められている。


私も、おもむきは違えど、生きにくさを背負ってきた一人です。
自分の経験を語り、どうやって生きにくさと向き合い、そうした経験から何を学んだのか。
今は何を考え、何をしようとしているのか。
生きにくさがあればこそ、その経験を血肉にできたこと。
今では、そうしてきた自分を、誇りにさえ思っていること。
そうやって、始めて自分らしく生きられる可能性を見いだせたこと。


その上で、友人に語りかけました。


あなたはチャンと苦しんできた。
だから、必ず幸せになれる。


友人の目が、うっすらと潤みました。


私は、普通の幸せさえ掴めないと、もう諦めたんだ。
今は、ただただ疲れた。


おそらくですが、誰にも語ったことのない本音を、漏らしてくれたのだと思っています。
店を出て、しばらくすると、ありがとう、元気が出た!と連絡が入りました。



自分を信じる力を、勇気を持たなければ、自分の本当の姿を見ることはできない。
自分をありのままに見る力を持たなければ、他者の姿をもありのままに見つめることはできない。
自分さえも信じられなければ、自分を励ますなんてできない。
ましてや他者を。


話しがあっちゃこっちゃ飛びましたが...


共感力って、確かな自己認識の上でのみ、発揮できるんだなぁと、ま、そういうお話です。